見出し画像

10年前、自分のパーパスが生まれた。「業種」の選択ではなく、「新たな価値」の量産だった。

幼い頃は、無邪気にお医者さんになりたいと思っていた。母方の祖父も父方の祖父も医者だったので、なんとなく、医者になることが当たり前だったように思う。患者の為にと、自らの健康へのダメージなど気に留めず、両祖父は患者の全快に向けて、1年中働いているように見えた。そんな姿を見て、自分もたくさんの人たちの命を救いたいと思っていた。兄も同じで、兄は医者になるという強い志を立て、突き進んでいった。

自分の思いはすぐに砕け散った。「人の血」をみるのがとても苦手だと分かったからだ。それどころか、少し量の多い「人の血」を見ると、自分の血の気が引いてしまうのだ。意識が遠ざかってしまう。怪我をして自分の血を見るのはなんともなかったのでとても不思議だった。一方、兄は初志貫徹で、長年の苦労の時を経て、今も医者をしている。それも外科医だ。正直、とても羨ましかったし、年間に救った患者の人数を聞くと、とても誇らしく思えた。

高校に入った頃だろうか、医者の夢が破れた自分は、幾つかの別の道を考えた。1つ目は生物だ。人の血はダメだったが、生き物との関わりはしたかったからだ。少し間接的だが、父のように薬を作る仕事で、患者と向き合うという未来も描けた。2つ目は弁護士だった。手術せずに人に寄り添うことができる仕事だと感じていたからだ。親戚に弁護士事務所を営む人がいたので、連想できたのだと思う。

弁護士の派生としては、心理学者があった。当時は、人の気持ちを捉える難しさを常に感じていたからだ。最後は自然科学者だ。感情のある人ではなく、感情のない自然に寄り添ってみるのはどうだろうかと、なんとなく思ったのだ。当時は今のように「地球に優しい」という概念は無かったが、算数が得意で、仮説の構築と立証が好きだったので、血が嫌いな自分、気持ちを捉えるのが苦手な自分には、ぴったりだと感じていた。

高校は付属校だったので、大学へは推薦入学だった。3年の秋頃だっただろうか、希望学部学科を書くシートが回ってきた。記入できる学部学科の数は10くらいあったと思う。そこで、理工学部材料工学、法学部、教育学部生物、教育学部心理学、人間科学部の順で書き込んだ。友人にはリストを見て目を丸くされた。また「材料工学には定員がないから、そこで決まり。あとは書いても意味がない」と言う友人もいた。でも、順番を決めるのに悶々と悩んだのを覚えている。

進学先は、もちろん材料工学だ。結果を見る前から分かっていた。金属工学の名前が材料工学に変わった1期目だったので、新しい道を切り開くというムードも選んだ理由の1つだったと思う。でも、大学入学後は4年ほどの寄り道に入った。「学問を極める」とは明らかに距離を置き、面白いと思ったことに片っ端から手を出していた。サークルは7つ手を出した。他の大学にも行った。総研の調査仕事の元請けもやった。バイトは全部で30種類くらいはやったと思う。そのお陰で多様な年齢、産業の人との様々な経験を持つことができた。世の中は広く、多様だと感じることができた。

大学4年生になると、周囲の友人のお陰で卒業には目処をつけ、就職という難題が目の前に突きつけられた。バブルが終わるギリギリの頃だったが、理系だったこともあり、幾つかの会社と内定手前までいくことができた。でも、選んだのは大学院への進学だった。自然科学者になるという志を思い出したからだ。ただ、学業に励んでいなかったので、大学院への推薦など取れるはずもなかった。幸いにも、友人に入れ替わり立ち替わりシゴいてもらい、試験対策をして、なんとか滑り込みで試験に合格することができた。

その後、世界を目指せと口癖の教授の指導の下、5年間を過ごした。自然の営みをメカニズムに落とし込む。そんな活動をずっと続けていたと思う。この5年で、論理的思考の基礎が固まった。ただ、無事に博士号を取得した頃から再び、社会へのインパクトの大きさについて考えるようになった。自然に起きている「あるひとつの事象」を突き詰めているだけでは、自分の憧れる医者や弁護士に到底叶わない。そんな気持ちだった。やはり、より多様で多くの人と関わり、ポジティブに生きる社会を生み出したかったのだ。

次に取った行動は早かった。視野を広げに、人と会うようになったのだ。その時あった人の1人が、凄腕の経営コンサルタントだった。とてもカッコよかった。自らの意志をぶつけ、人を巻き込み、猛スピードで物事を進めていく。論理的思考の究極を見たような気がした。次の道が決まった瞬間だった。大学の助手を辞職し、晴れて経営コンサルタントになった。でも、振り返ると少なくとも最初の5年はなんの価値も出していなかったように思う。少しずつ少しずつ、多様なヒトやコトへの興味や論理的思考、さらには「新たな価値を生み出したい」という意志が噛み合い始めて、結果が残せるようになった。

その後も、経営コンサルタントを長年続ける中で、漠然と思っていた「自分のやりたいこと」を言語化できるようになっていった。10年くらい前、ちょうど社長に就任した頃だったと思う。当時は、パーパスという言葉はまだ無かったが、明らかに「自分のパーパス」を意識した。「自分はなぜ医者や弁護士になりたかったのだろうか」、「これまで共通して追い求めてきたことはなんだろうか」と自問自答した結果、「より多くの人が、能力を最大限発揮できる状態を生み出し、社会に新たな価値を量産したい」と思っていたのだ。さらに、人が新たな価値の量産に関われると、医者や弁護士だけでは成し遂げられなかった別次元の「心身の充実」も生み出せると確信していた。医者や弁護士とタッグを組めば最高だと、考えたのだった。

話は変わるが、私の好きな会社のパーパスはソニーのものだ。ソニーのパーパスは「クリエイティビティとテクノロジーの力で、世界を感動で満たす」だが、自分のパーパスと重なる部分が多いと思う。感動を生むには新たな価値が必要だ。満たすというのだから、感動の数は無限を目指している。量産と同じだ。少しだけ異なるかもしれないと感じるのは、量産へのスタンスだ。私のパーパスでは、埋もれている魅力的な能力をどんどん発掘したい、その能力を持つ人を応援したい、その人とチームを組みたいという想いが強い。縁の下の力持ち的な要素の割合が大きいかもしれない。

ただ、欲張りすぎかもしれないが、自分自身で構想して量産することにもどんどん挑戦したいと思っている。それができると、人を応援する時の迫力が増すと考えている。結局、主役でも脇役でも、裏方でもいい。世の中の希望となる新たな価値を量産したいのだ。それに加わる人を少しでも増やしたいのだ。これからの人生、なにがどこまで出来るかは全く分からない。でも、自分のパーパスに正直に生きていきたいと思う。

それから、やりたい事がなかなか見つからない人もいると思う。私もそうだった。でもその場合は、まずは直感に従って色々試して欲しいと思う。そして、数年経ったら様々な経験を振り返って、それらに共通していることを見出すことに挑戦して欲しい。かなりの確率で直感の言語化を始められると思う。自分のパーパスが朧げながらでも見えてくると、未来への活力が湧く。こんな楽しいことはない。ぜひ試して欲しいと考えている。

いいなと思ったら応援しよう!