「括弧つき正義」に振り回されない~森氏辞任、トランプ氏無罪に考える
サステナブル(日経新聞の記事は「持続可能」との言葉で統一しているようですが)であることは環境問題だけでなく、すべての人々を包み込む社会性のありかが問われています。人々の好み、美しいと思う感性、これらも含みます。
ただ、どうも環境問題ばかりが一方的に論じられる傾向にあります。例えば、確かにスカンジナビア発のサステナビリティは環境問題の動機が強いですが、イタリアのそれは1980年代にはじまったスローフード(美味しいものをいつも食べたい)や田園風景の創造と維持(美しい風景のなかにいたい)も十分に動機のなかに入っています。サステナビリティの動機やウェイトにはさまざまな要素があることが忘れられがちなのですね。
もちろん環境問題は優先されるべき課題ですが、それがあまりに「括弧つきの正義」として闊歩しやすいことに落ち着かない思いをすることがあります。今回はこのテーマについて、ヨーロッパのごく身近なところから書きましょう。
クラフトビールに拘る若い子たち
ぼくの息子は19歳です。ミラノで生まれ育ち、イタリアの学校でずっと勉強してきていますが、息子や彼の友人たちの話を聞いていて感じるのは、いわゆる社会的責任というテーマへの関心の持ち方です。社会的問題と政治レベルが必ずしもダイレクトにつながっていません。つまり何らかの問題に「だから政治が悪い!」と脊髄反射しない。これはバールや床屋などのコミュニティで口角泡を飛ばす中年以上の人たちとの大きな違いのような気がします。
また、スウェーデンにはじまって各国に広がった、学校を休んで環境問題のデモに参加するという行為も、ストレートな政治デモとはニュアンスが違うのですね。異議を唱えるアプローチは多々あり(それこそソーシャルメディアでの投稿もそうでしょう)、どれか一つで強行突破しないともう道がない・・・とはあまり悲痛に思っていない様子です。
しかし生理的な反応に近いところで、プラスティックを無駄に捨てるのは嫌だ、ビールはクラフトに限る、という言動をとっています(イタリアは16歳から飲酒が認められます)。大量生産の工業用ビールは不味いから、クラフトが今入手できないならビールは不要、といった感じです。また男性だ、女性だ、とわけること自体に距離感をもっています。これが世にいうZ世代なのだと思わされます。
人の欲求により忠実になる
B級食品も美味しいと好むことは誰でもあることです。だから工場のベルトコンベヤーにのっかって加工されたものには手を出さない、ということでもありません。ただ、いいものに敏感なのです。
即ち、社会問題への解決に忠実であることを優先するために自分の欲求を抑えるストイックな姿を想像すると、それは違うのです。ただひたすら美味しいもの、(自分にとって)美しいと思えるものを選んでいくと、結果としてサステナブルな商品に行き着く確率が高いような枠ぐみを事前に選んでいる節があります。まさしく土地勘があるかのように、です。
その土地勘なるものは、友人との会話や接しているソーシャルメディアのフォロー対象の選択によって養っているのでしょう。
「括弧つき正義」に振り回されない
さて、Z世代論はひとまず脇において話を続けます。
社会正義や環境正義を振り回す人たちは、何らかの権威に支えられた金科玉条のごとく「こうであるべき」と主張してやみません。だから、ぼくは括弧つきと形容するわけですが、想像するに、この括弧つき正義はイメージとしてはテキストなんです。書かれた文字ですね。
しかしながら、サステナビリティや社会的責任のようなものは曖昧な性格を多分にもちます。線引きが明確であるわけではなく、ある指針に基づいた範囲のある選択肢として提示されていることが多いからです。比喩的に言うならば、(寛容な)親が子どもに示すような範囲と言ってよいでしょう。極めて臨機応変に示しますが、子どもが迷子になったり怪我をするような危険には事前策も講じます。
これは法律のようなテキストではなく、声であったり親の生きざまによって表現されます。「お天道さまがみている」言われることもあるでしょう。大昔、それぞれのコミュニティの人数がさほど多くなく、しかも比較的固定的であった時代は、こうした声の伝達である範囲が確定してやすかったと想像します。別の比較をすれば、エンジニアリングとデザインでしょうか。
しかし現在、地球上には77億人の人が住みます。1850年はおよそ11億人、1950年には24億人、それから70年を経て約50億人が増えているわけです。地球の面積は同じで、これだけの人が増えています。窮屈です。そして長い物理的距離を多数の人が移動する時代です。(伝染病の拡大は言を待たず)文明や文化の衝突は避けられませんし、意図的であれ、非意図的であれ、超巨大企業に公共性の欠如があれば、社会は致命的な傷を負います。
だから、いくらテクノロジーが貢献しているとはいえ、国連がSDGsを定めるのも無理ないよなあ、と思います。でも、SDGsは法律ではなく、親よりはやや口うるさいかもしれないですが交番のおまわりさんではない。学校の先生でもないかもしれません。どういう比喩が良いのか適役を思い付きません。確実に言えるのは、環境、経済、社会のもろもろのすべてについてよりセンシティブであろうという姿勢がないと、生きずらい社会であるということです。
上記、以下の3つの記事に対する、ぼくなりの読み方です。
写真©Ken Anzai