自らの考えに確信をもつための「ちょっとしたこと」
日本滞在中、さまざまな場面で議論がある段階でスタックする様子に接し、これは日本でのビジネスにおける一つの特徴になっているとあらためて感じました。
あえて話の範囲を狭める目的でシーンをビジネスに絞りますが、何が特徴といえば「自らの考えに確信をなかなかもてない」という点です。更にいえば、仮に確信をもったとしても、それを他人に表明できない、という点です。
これがどういう行動パターンを生むかといえば、人に相談する時間が多くなる、何かのリサーチをしないと気がすまない、試行錯誤のステップに至らずに言葉のうえだけで迷う―低い生産性の要因を羅列しているようなものです。
拙速とは「できはよくないが、仕事が早いこと」ですが、確信の弱さは「できが良くなるかどうかは保証しがたい仕事の遅さ」を招いていることになります。
極端な言い方をすれば、行為そのものでの失敗は少ないが、時期を逸する機会損失や試行錯誤による学びが少ないなどのマイナスをもたらします。本であれば、昔の人が書いた本の多い引用が有難がられます。古典が尊重されるとの意味ではなく、誰か権威的な人物の言葉が闊歩しやすい。
ーーつまりは、自分自身が身体で経験したことをもとに自分の頭で考えたことがベストである、との信念を得にくいような「枝葉」でうっそうとしている。
このうっそうと茂る枝葉の存在は「同調圧力」にもなります。あらゆるアングルから人のもつ確信に横やりを入れようとし、もっと面倒のない流れにのせようとします。
だからといって、ドン・キホーテのように振る舞うべきというのではありません。確信をもつか、もたないか、実は、これはちょっとしたことです。
しかし、この確信の欠如が日本のビジネスの多くの局面で不具合をつくっている。多くの弱点のもとがここにあるとすれば、ここをちょっとひっくり返してみるだけでまったく異なった景色が広がる可能性があります。
そのちょっとした部分とは何か?ですが、3つあります。
一つは、ここ最近、何度も書いていることですが、自分なりに全体像を掴めたという感覚を重視することです。二つ目に、その全体像を掴むにおいて、理念的なモデル(イデーのようなもの)は使い勝手が良いと認識することです。そして、最後、3つ目はポエティックな部分(あるいは審美性に関わる部分)を必ず確保すること。
これらを「ちょっとしたこと」なのか?と思うかもしれません。いや、いや、これらを「ちょっとしたこと」と思い込むのがすべてのスタートなのです。身体的負担も経済的負担も、ほとんどありません。
何を怖がる必要があるのか?
冒頭の写真©Ken Anzai