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「笑いに変える力」はもういらない。自虐ネタはおもしろくない方がいい。

「日本の笑い」が変わりはじめた気がする。

松本人志さん休業の影響は大きい。

「最後は笑いに変えるから」

というのは、2004年に松本さんが書いた「チキンライス」という歌詞の一説。「あれだけ貧乏だったんだ」と振り返る彼自身の逆境を「笑い」という形で昇華させた美学が表現されている歌だ。

ネガティブな体験を、笑いに変える力。

それは強さな気もするし、称えられるべき姿勢かもしれない。

でもそれが「笑い」に変わっていた日本は、少し歪んでいた気もする。

今日はそんな話。

■笑いの源はステレオタイプ

数年前、テレビかラジオでこんな話を聞いた。

ある女性芸人さんが、いつも通り「自分はブスだ」と自称して笑いを取っていたら、欧米の人から「そんなことないよ!そんなことを笑う人はいないよ。」と真顔で訂正された、というエピソードだ。

彼女の笑いはいわゆる自虐ネタで、日本の笑いではメジャーなジャンルの1つだ。自虐ネタこそ「笑えるに変える力」の代表的な形と言ってもいい。

しかしそれを「笑えない」という感覚の人もいる。

この状況を構造的に捉えてみると、笑いの源には「ステレオタイプ」があったことに気付かされる。

ステレオタイプとは、いわゆる固定観念のことで「○○は○○なものである」というイメージのこと。

・女性は○○なものだ。
・男性は○○なものだ。
・黒人は○○なものだ。
・白人は○○なものだ。
・Z世代は○○なものだ。

など、大きな主語で一括りにするのがステレオタイプ。

「イメージを持っていること」は仕方がない。しかしそのイメージを相手に押し付けたり、そのイメージに自分が苦しめられたりすることがステレオタイプの問題点だ。

その後者が、いわゆる自虐ギャグの源になっている。

世の中の共通認識になっているステレオタイプがあり、そのイメージとは異なる自分がいる。その差分を笑いに変える構造で自虐ネタは成立している。

例えば「ガリガリの男性芸人」の笑いは「男はたくさん食べて筋肉があるのがカッコいい」というステレオタイプの元に成立している。

■ステレオタイプの背景に対する想像力

ガリガリの男性芸人で面白い人はたくさんいる。

ただ当事者が「なぜそれを笑いに変えようと思ったのか」。

そんなことを考えると「その人がステレオタイプに苦しめられた過去」が頭によぎってしまう。

観客にそんな想起をさせて「笑えない」と感じさせてしまうのは芸人としての実力不足だとする風潮もある。

だから自虐ネタをやる芸人さんたちは切磋琢磨して「笑えない」を「笑える」に変えてきた。それが日本で大きな勢力となったジャンルの「笑いに変える力」だ。

松本人志さんが牽引してきたのは、そんな類の笑いだと思う。

だけど今、彼は芸能活動を休止している。

もしかしたらこれは、日本の笑いが変わる岐路かもしれない。

固定観念をなくすこと。
自虐ネタで笑わないこと。

日本の笑いが変わるには、この2つの要素が必要だ。

1つ目はだいぶ浸透してきた。

問題は2つ目だ。

これは笑わせる当事者だけの問題ではない。笑う側も関与している。

他人の自虐ネタで笑うこと。
他人の自虐ネタを「面白い」と捉えること。

それはステレオタイプを助長させる。

「笑う」という行為によって「◯◯は◯◯なものだ」という固定観念はより強調される。

例えば女性のすっぴんを笑いの対象にすることは「女性とは化粧をするものだ」というステレオタイプをより助長することにつながる。

消えかけたステレオタイプは「笑いになる」という状況によって、引き戻される。

そう考えると、これまで数々の自虐ネタで笑ってきた自分は、ステレオタイプを助長してきたのかもしれない。


ここまで読んで「オーバーコンプライアンスだ」とか「そんなんじゃお笑いが成立しなくなる」という感想を抱いた人もいると思う。


ただこれは「お笑いすら窮屈になった」のではなく、これまでの笑いは誰かに窮屈さを押し付けて成立していただけかもしれない。

「苦しみを笑いに変える力」はもう十分だ。

もちろん全ての自虐ネタが苦しみから生まれたわけではないし、ステレオタイプを活用するのは笑いの基本かもしれない。


ただ、そもそものステレオタイプをなくすこと。
そもそもの苦しみ(の可能性)をなくすこと。

この転換ができれば、日本の笑いは次のステージにいけるような気がする。


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小島 雄一郎
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