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「この川を泳いで渡ったらお金をあげる」というのは政治じゃない

またこんな記事が出て、相変わらず財務省あがりの御用学者が何か言ってるのかと思いきや、国政政党の党首まで参加していて呆れた。

結論からいえば全く的外れの議論でしかなく、いちいち記事の内容に反論するのもバカバカしいのであるが、端的にこれに対して正しい指摘をしているヤフコメをご紹介したい(2728もの共感がされている)。

バラまきを続けた結果が今でしょう? 一時的な給付ではだめなんです。

https://news.yahoo.co.jp/profile/comments/ea36da6c-ad30-4d94-9d70-7b9258e56939

以上終わりにしてもいいのだが、それではあまりに無責任すぎるので、なぜ「第三子に1000万円給付」が単なる机上の空論の鉛筆なめなめに過ぎず、結果として少子化対策にならないかについてこちらにまとめた。

これに限らず、「そもそも子育て支援で金をバラマキしても少子化対策(出生増)にはならい」という話は今までも何度も解説している。

それこそ岸田首相が最初に「異次元の少子化対策」とぶちあげた2023年1月の段階からこういう記事を出して「子育て支援じゃ少子化対策にならない」と書いている。

この段階ではまだ「子育て支援金」などというものは政府は隠していたが、私は必ずバラマキした分後できっちり徴収されると予言していて事実その通りになった。

少子化対策にならないことを少子化対策に効果があるかのごとく誤認させて、あまつさえ、「そのためには増税もやむなしと思いなさい」というような、まるで「お国のために…」と言っていた戦前のような空気を感じる。誰も表面的に異を唱えられない「未来の子どものために」という言葉を人質に、国民全員が進まされているのは戦前と同じ道ではないのか?

当初は、児童手当給付に喜んだ子育て世帯の人たちも、最近はこの「増税のカラクリ」に気付いて、多くが「バラマキしなくていいから増税するな」と言っている。当の子育て世帯の人たちにすれば、児童手当の拡充より年少控除の復活だけでいいのである(もちろん何らかの事情で親が働けないという世帯への「困窮した児童のいる世帯支援」は別途必要だが)。

児童手当などの給付をすればその分所得はあがるが、あがった分そっくり社会保険料の増額でもっていかれる仕組みなら意味はない。意味はないどころか、こうして値上げされた社会保険料が値下げされることはないわけで、国民負担率の増加という形で、今の親世代以上に今後20年後に現役世代となる赤ちゃんんたちの負担となる。むしろ害悪政策なのだ。

政府支出で予算を組めば当然そのための工数もかかるし、余計な中抜き業者の利益もここに上乗せされて、無駄な経費がかかる。何もいいことない→いや、まさにここが政治家がバラマキにこだわるひ理由が隠されていて、これが自分らの利権になるからだ。ますます意味ない。

こども家庭庁なんてわけわからないNPOだかなんだかが群がって公金チューチュー庁になってるでしょ。

それにしても、残念なのはこの人も所詮こういうレベルでしか考えられないのだなということ。党を作った際は期待もしたものだが…。

この方は、つい先日の東京15区補選において、都民ファーストの乙武候補を応援していたけど、あれも残念なこと。
ちなみに、乙武氏が少子化対策についての考え方の取材では以下のように答えている。

子どもを大切に育む「こどもまんなか」政策を進める。子どもの遊び・居場所・教育などについて、子どもの声を聞き、政策に反映させる仕組みを作る。大学までの教育無償化、高校までの医療費無償化、あらゆる子育て支援策から所得制限を撤廃、小1の壁となる学童クラブの待機児童を減らすとともに質を向上させるなど、子育てを全力サポートしていく。不妊治療や卵子凍結の公費負担を創設・拡大し、ライフプランに選択肢を増やす。

こども家庭庁の言っているフワフワしたことの焼き直しでしかなく、「そこじゃねえだろ」感しかない。何よりそもそも結婚前の段階にこそ深刻な問題があることに触れない時点で失格。

こういう人を応援するようだから国民民主党はうだつがあがらないんだと思う。

いずれにしても少子化の根本問題は、「第三子が産まれないことではなく、第一子が産まれないこと」であり、真の少子化対策とは第一子を増やす事。第一子を増やすとは婚姻数を増やす事であり、そのためには若者が結婚や出産を諦めてしまわないような生活と心の余裕が必要。そしてそれはバラマキ→増税のコンボではむしろ逆効果なのである。

ヤフーの記事に書いたことだが大事なことなのでそのまま紹介する。

「第三子に1000万支給」などというものは、「大きな大河の向こう岸まで泳いで渡れば報酬をあげるよ」的なもので、泳げる者は何の苦労もなく報酬を得られるが、泳げない者は途方に暮れるだけだ。それに対して「泳げないのは努力が足りないからだ。自己責任だ」とでも言いたいのだろうか。それとも、泳げない者までも飛び込ませて溺死させたいのだろうか。
大河を渡るということが前提とするならば、本来政治がやるべきは「金をやるから泳いで渡れ」と言うのではなく、船を用意したり、橋をかけたりすることではないのか。





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荒川和久/独身研究家・コラムニスト
長年の会社勤めを辞めて、文筆家として独立しました。これからは、皆さまの支援が直接生活費になります。なにとぞサポートいただけると大変助かります。よろしくお願いします。