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「俺の正義」が否定されると被害者ヅラする人

例の飛行機でマスク着用を頑なに拒否した逮捕された人の裁判。

速報という形で、求刑懲役4年というものが出た。

検察の求刑理由が以下。

「マスク不着用に名を借りて我欲を押し通し、日本全国で乱暴狼藉に及んでいて、犯行は極めて悪質。この事件では模倣犯が既に出ていて、判決次第では今後も模倣犯が出てくることが危惧され、広く社会に害悪を与える。36歳という年齢でも我欲を押し通し、社会内での改善更生も見込めず、保護観察も守れるとは思えない。刑務所で徹底的に矯正教育を受けるべき」

なかなか厳しい物言いだが、「36歳にもなって…」と言いたかった検察官の気持ちはわかる。世間の反応も概ねこの検察の感情に近いのではないだろうか。ヤフコメやSNSの反応を見る限り、この被告寄りの意見はあまり見かけない。当然だろう。

一応断っておくと、私自身はマスク派でもコロナ脳でもありません。個人的にはもはやマスクなしで外出しているし、飲み会もマスクなしでやってるし、なんなら別に座れるくらいのすいている電車ならマスクなしで乗っている。が、2020年の事件当時はちゃんとマスクはしていた。未だに「マスクをしてくれ」と言われる店もある。内心は「マスクいる?」と思いつつも、その場合は「はい」。そうですか」とマスクをしている。

なぜなら、その場所に入る以上、その場所のルールというものがあり、それを個人の主義主張を押し通すのであれば、その場所には入れないというのが社会生活だと思うからである。

「そのルール、おかしくね?」と思うのは自由だが、「私がそのルールはおかしいと思うから私に合わせろ」というのはもっとおかしい。なんか書いていて、小学生でもわかるような理屈だな、と思って来た。

この被告は『ルビンの壺』を持ち出して屁理屈こねているのだが、痛々しさしか感じない。

『ルビンの壺』とはこれである。

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壺と言われたら壺に見えるし、2人の人が見つめあう姿だと言われたら2人の人に見える、というもの。同じものでも見る側の意識によって変わるという時によく使われる。

被告はこれを持ち出して「マスク着用をめぐる問題は物を見るレンズという問題を先鋭に露呈しました」と演説するのだが、それ言ってることブーメランだと気づいていないのだろうか。「俺には壺にしか見えないんだからお前らも壺だと言え」と強制してるだけ。

被告がマスクをしなくていいと見える世界の住人でも、マスクをしてくださいという世界に客人として自分が足を踏み入れるのであれば、マスクをしてくださいに従えというだけの話。お前がこれを壺に見えるかどうかは自由にしてくれて構わんが、ここの中に入る以上それは「向かい合う二人」なんだよって話でしょ。

どうしても壺だと言い張りたいんなら、どうぞ自分で自家用ジェットを購入して好きなだけノーマスクで飛べばいいじゃん。

被告は「マスクを着用していないとまさに非国民とされ、人権を与えられないかのようになりました」というのだが、彼が非難されているのは「マスクをしない」ということではなく、それを頑固に押し通したあげく、CAに怪我をさせ、フライトに支障をきたし、多くの他の乗客に迷惑をかけたことである。

最期に「私は無罪です。無実です。2020年にピーチ機内でマスクをつけなかったことを大変誇りに思います」と締めくくったらしい。

知らんがな。という印象しかない。一生、そのスタンスで生きていくのであれば、それは面倒くさいだろうな、周りの人が。

一言でいえばメタ認知できていない人で、主観でしか物事をとらえられないから、今回の逮捕も裁判も自分が被害者だと思っているのだろう。本人は悲劇の主人公気取りなのかもしれないけどね。

とはいえ、これほど強烈ではないにしろ、我々の周りにはこういうタイプの人間が少なからずいる。「俺の正義」しかこの世に存在しないと勘違いしている人が。その「俺の正義」を押し通すとどんな迷惑を周囲に及ぼすのか考えが及ばない人が。その上「俺の正義」が否定されてしまうと「差別だ、偏見だ、人権の侵害だ」とわめきちらす。

どこかで見たな、と思ったらこれでした。

こんなん、誰が認めてくれると思ってやってんだろ。


かつてバブル時代、マハラジャなどのディスコにおいては、入口に黒服がたっていて、服装チェックやだささチェックがなされていた。主に男性に対してである。サンダルや短パンがNGなのはレストランでもよくあることだが、ではジャケットなりスーツで行けば入れるかというとそうでもない。

田舎からでてきたようなだせえジャケット着ている男は「お客様。申し訳ございませんが、お客様は当店にはご入店できません」と断られていたわけである。さすがに「おめえ、だせえからダメ」とは言わないが、入店拒否された客は「人権侵害だ」と吠えるのではなく、周りの「入れてもらえる男」の服装や髪型を見て、再トライしたのであった。そうやって学習して成長していくのでもある。

江戸時代においても、貧乏長屋に住んでいた町人でも吉原に足を踏み入れる際には、身だしなみを整えて、それなりの着物を着ていかないといけないという不文律があった。だからこそ、「損料屋」という貸衣装屋が栄えた。

損料屋ではふんどしが一番貸出された。そもそも江戸の町人は普段はふんどしさえつけていない。別に必要ないからだ。しかし、吉原に行くのにそれは無粋であり、そのためだけにふんどしを借りて行くのである。

一人で山奥で仙人生活を送るならそんなもの気にしなくていいだろう。しかし、社会生活を送るということは、誰かが作った「ルール」をひとつずつ学んでいくことではないか。学んだうえでルールを塗り替えたければ、それこそ大勢の人から認められなければならない。大勢の人に迷惑をかけるだけの人間の言葉に誰が耳を貸すだろうか。



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