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ジェンダーダイバーシティの賞味期限

アベノミクスの目玉の一つとして「すべての女性が輝く社会づくり」が提唱されて6年。ジェンダーダイバーシティという言葉は定着したものの、高い目標と現実の落差は「ダイバーシティ疲れ」を生む。国内の労働力不足を女性で補うというドライな目的以上に「本当にこれって意味ある?」という懐疑が、多くの働く男女の本音ではないだろうか?

では、そもそも論に立ち返ろう。なぜジェンダーダイバーシティが企業経営にとって重要か?根本の議論は二つある。まず、男女は平等であり、肉体労働などを除けば働く能力に優劣がないという前提を是とすると、機会と環境さえ公平ならばジェンダーダイバーシティは当たり前のはず。現場から経営陣まで、男性に偏っていること自体がおかしく、機会と環境を整えて本来あるべきジェンダーパリティを実現しようという議論が一つ目。

二つ目は、多様な人材が画一的な価値観を破り、イノベーションを生むというまったく違う議論である。確かに日本企業の古い体質では、同じように社内で育った男性管理職が、同調圧力のもと「右向け右」をしがちで、新しい挑戦が生まれないという課題認識は正しい。これを打ち破るために多様な価値観を求めることも理がかなっており、女性管理職や取締役に対する期待はこの点が大きい。

実は、これら二つの議論はつながっていて、独立ではないことに注目したい。この点が、ジェンダーダイバーシティにまつわるある種の居心地の悪さを生んでいると思う。すなわち、女性が異なる価値観を持ち込むという二つ目の議論の前提は、働くという文脈で女性と男性が根本的に異なるという一つ目の議論を前提としている。踏み込んでいえば、「マイノリティでいろいろ大変な目にあっている」女性だからこそ、新しい風を吹き込めるよね、という暗黙の期待がありそうだ。

ということは、仮にジェンダーパリティが実現し、一番目の議論が成り立たなくなれば、当然二番目が成り立たず、ジェンダーダイバーシティはそもそも重要ではないという帰結がもたらされる。

もちろん、いやいや男女は生まれながら違うという議論もあろう。この点、科学的な白黒はついていないようだ。個人的には、DNAや脳の構造よりも、社会的な刷り込みや体験のほうが男女の意識の差によっぽど響くのではないかと思う。

こう考えると、ジェンダーダイバーシティで多様性を、その先にイノベーションを、というバラ色のシナリオは、まさしく男女の雇用機会と労働環境が現実的には不均等である今だからこそ成り立つことがわかる。東大生の男女比率は別として、男女の高等教育に大きな差はない現代、育児環境や社会通念を含め、社会に出た後の女性に対するさまざまな向かい風を取り除くことが必要だ。

皮肉なことだが、ジェンダーパリティが実現するまでの期間が、二つの議論が同時に成り立つ「ジェンダーボーナス(筆者造語)」の期間ということを意味する。日本の高度成長期に人口構成がピラミッド型を成し、厚い労働人口がシニアを支えた「人口ボーナス」期間と同じく、この期間は有限だ。実際、仕事も家庭も男女参画が当たり前な北欧諸国は、裏返せばジェンダーボーナスを終えているという見方ができる。

日本でも、若い世代のジェンダー意識はこの10-20年を見ても、格段に進化している。社会の積極的な後押しがあれば、ジェンダーボーナスは意外と短期間かもしれない。

ジェンダーボーナス期間を超えて目指すべき長期的なゴールは、ジェンダーが大きな価値観の差を支配しない世界だろう。性差よりも国籍、文化、年齢、教育背景、それまでの勤務体験などが大きな価値観のパラメータになり、職場の多様性の源泉となるだろう。このとき、「男か女か」という差は、たとえば「猫派か犬派か」という属性くらい、仕事には関係ないものになるのではないか?

ジェンダーダイバーシティの難しさは、ジェンダーを論じることで、究極的にはジェンダーが意味をなさない世界を実現しようとする意図にあると言える。ジェンダーボーナスを享受しつつ、なるべく短期にジェンダーパリティを実現することが、私たち大人世代の急務である。

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