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「大きな主語」と「小さな主語」の間にあるもの。

「日本は」とか「日本人は」という主語は大き過ぎる(と思う人は多いはずです)。

しかしながら、もっと大きなサイズである世界は平和であった方が良いに決まっています。気候変動によって人類が滅亡しないように努めるのは、地球に生きる人々の義務でもあるでしょう。

だからといって「自分で具体的に何をやっているか?」と問われると、口ごもる人が多い(と、やはり思っているでしょう)。COP27で地球温暖化を議論する各国代表にでさえ、本当に積極的かどうか疑わしい人たちも多そうです。例えば、この人 ↓。

一方、ローカルのことに力を費やす人たちがいます。ローカルにすべてがある。にもかかわらず、中央の大都市に人々の目が行き過ぎる。そう警告を発しながら「地方の再生」に動きます。「ローカルサイズのことが十分にケアできずに、それ以上のサイズの世界に目を向ける資格があるのか?」と語る人もいます。

極私的なレベルも含め、どのサイズも重要であり、どれがエライわけでもありません。ただ、大きなサイズが対象であっても、小さな主語を起点とした方が適切な場合が多いでしょう

それでは、今大きな問題になっている世界での民主主義の現状。

これがどうなのか?と現実を語るに、どのような主語が適切でしょうか?このようなことを題材にしながら、「大きな主語」と「小さな主語」の間を探ってみましょう。かなり、ややこしい話なので、気分がのった人だけお読みください 笑。

今、民主主義は人口でみると劣勢である。

植民地であった国が20世紀後半以降続々と独立し、民主主義を享受する人たちの数は伸長してきます。そして、この数年、急に強権主義の国が目だってきたけれど、「世界は自由になりつつあるよね」とネットを眺めていても思っている。「だって、あのようなところでも発言できるんだし」と。

しかし、現実は逆民主主義国の人口、世界で3割未満に 新興国が離反)です。確かに第二次世界大戦後の20年間くらい、1980年代からの20年間ほど、強権主義が減り、民主主義が増えましたが、それでも前世紀において、それが逆転はしていなかったのです。

https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN16DIW0W2A910C2000000/

ぼくは上のグラフを見て「およそ1世紀近く、民主主義を享受する人が多かった時代って、今世紀はじめの10年ぐらいしかなかったのか」とため息がでました。しかも民主主義とカウントされる国と人口比をみると、「不完全な民主主義」が圧倒的に多いのです。

https://www.nikkei.com/article/DGXZQOGN16DIW0W2A910C2000000/

ハンス・ロスリング『ファクトフルネス』やスティーブン・ピンカー『暴力の人類史』などを思い浮かべながら、なんとなく「ああだこうだといっても、人々は良い方向に向かっているんだよ」と思い込んでいたら、「あれっ、そうなのかな?ほんとう?」との現実に直面しているのですね。

強権主義の都合の悪いところ、民主主義の都合の悪いところ。

強権主義とは、ヒエラルキーのトップにある人たちだけが事態の判断と選択肢の決定をする体制です。これによって一時的に経済や文化が繁栄することもありますが、その体制が崩壊したとき、それまで運営していた際のノウハウが公に継続されることは稀です。言うまでもなく、人々が政府の判断に異論をはさむことはできないシステムです。

他方、民主主義は、政府のトップの言うことに納得がいかなければ、人々は議論に持ち込むことができるシステムです。したがって、決定までに時間とエネルギーを使います。それが弱点といえば弱点ですが、そのかわり、その長いプロセスである方向に動くことに多くの人々が腹落ちする確率が高まります。加えて、そのプロセスが社会としての学習に繋がります。政策の決定までの時間で得た知見が社会資産になるわけです。

(上のグラフで興味をひくのは、「不完全な権威主義」という表現がないことです)。

上述のグラフからみると、トップの意向に反論できない人々の方が地球上で断然多い。言葉を換えれば、60%近く、つまり過半数の人は反論できるほどの自由が確保されていない環境に生きているのです。

この現状を語るとき、「わたしたち人類は」や「わたしたち世界市民は」と話を始めるのか?または「わたしたち民主主義国家にいる市民は」や「わたしたち強権主義国家にいる市民は」なのか?あるいは「わたしは」と語るか?です。

とても迷います。

民主主義の世界にいる市民は強権主義の国に移住できるかもしない。しかし、その反対の移動には多くの規制がかかるかもしれない。そのような状況で「わたしたち世界市民」などと言えるのか? この主語の選び方がそのまま、とても冷酷な現実を映し出していることになります。

「わたし」の判断は感覚を伴う。万人に通用する論理が優先しない。

人々の生活は、当然ながら、個々の感覚からくる判断や趣向あるいは倫理観、多くの人が合理的と考えるロジック、これらの組み合わせの上に成立しています。

サイズの大きな主語で語るのが危ないのは、個人の感覚が共通であるのは非現実的だからです。個人的な感覚がいかにも社会に汎用的に広く通用していると勘違いしているか、逆に個人のなかで合理的ロジックが肥大した状態で語っていることを想像させるからです(殊に後者は「あたかも客観的な合意に近い」と思われるから、要注意です)。

地方再生に取り込んだり、近隣のコミュニティの力を注ぐ背景や動機はさまざまにあるでしょう。が、バケモノのようなロジックに殺されない、個人の感覚が比較的生きやすい、言ってみれば、自分にできるだけ正直になれるということもあると思います。

ぼく自身も、そういうプロジェクトに関与したりしています。

ただ、そういう時に、いつも意識することがあります。サイズの小さいエリアのプロジェクトにコミットしながら、どのように何千キロも離れた地域の活動とリンクさせるか?です。リンクがなければ、近隣の話は、単に内向きの閉鎖的なところでの自己満足に過ぎないこと(が多くなります)。

(因みに、この距離を超えたリンクについて、ソーシャルイノベーションの第一人者、エツィオ・マンズィーニは『日々の生活』のなかで「ハイパーローカル」という言葉を使っています)。

大きな主語のもっともらしさに負けないために

「いや、いや、自分の足元のことで精いっぱいで」が、多くの場合の本音でもあるでしょう。

しかし、これ(距離の離れたコミュニティとの連携)をやらないと、大きな主語で語る、一見ロジカルに語る勢力に振り回されます。「振り回される」を別の言い方をすれば、劣勢となり自分たちの意見が通じなくなる、ということです。

そこで、より説得性のある前向きな路線を求めるなら、次のような考え方ができるか?と試案中です。

個人的な感覚を踏まえた「わたし」が第一にあり、第二に「わたし」が複数集まり違った感覚の集合体としての合理的なロジックを求める。しかし、その合理的ロジックの適用範囲は、システムがかなり似ているところまでとする。

(少なくても民主主義圏に生活する人間としては)民主主義社会のロジックを強権主義に強引に押し込もうとしない。「わたしたち民主主義国家にいる市民は」との主語に留める。

ゆめゆめ「わたしたち世界市民は」などとは名乗らない。一時、民主主義の方が数の上であったとしても、短期間のことであったのだ。それでないと「俺たちを一緒にしないでくれ」と言われるのがオチかも。

それでは、人が異論を述べたり議論する世界を限られたものとするのか?諦めるのか?という声が聞こえてきそうだ。気候変動は生命体としての人類の問題だ、人権は誰にでもリスペクトされないといけない、と。

実のところ、強権主義の社会において、もちろんのこと、それを享受している人たちと、それに反発している人たちの両方がいる。問題は、この反発している人たちと「ハイパーローカル」レベルで何らかの共通のフィールドをもてるかどうか、だろう。

つまり、「志を同じくするわたしたち」の世界のつくり方である。そのときできる主語が、強く、しぶとく存在感があることになる(ただ、何らかの運動体のような強いイメージが醸し出されそうで気になる)。

主語を定めるって、えらい大変ですよね。注意しようっと!

写真©Ken Anzai



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