出島、出島組織って面白い。
昔、教科書に載っていた出島。海に飛び出た扇型の小さな島の姿を、大人になっても鮮明に覚えていた。そして、ちょうど1年くらい前、その出島に初めて訪問する機会があった。異国との交流が唯一許された場所は一体どんなところなのだろうか。ワクワク、ドキドキしながら、現地に向かった。第一印象は「ムムムッ」だった。出島が海に浮かんでいない!出島の向こうにビルがある!頭の中は真っ白になり、しばらくその場で立ち止まってしまった。もちろん、その後、出島自体が残っていることや、復元されていることに感謝しながら、ガイドさんの話に夢中に耳を傾けた。出島の建物には、異文化の融合の証を随所に見ることができ、当時の状況に想いを馳せる貴重な体験として心に刻まれた。
それから半年と少し経った頃に、友人から「出島組織サミット」を主催する。もしよかったら参加しないか。そんな投げかけをもらった。「出島組織」には「挑戦」や「異端児が集まる場所」といったイメージを持っていたので、面白そうだと、二つ返事でOKした。実際、「出島組織」は、組織本体から物理的/精神的に距離を作り、新しい何かを生む為に挑戦する組織と、定義されていた。
少し歴史を振り返ってみる。出島が築造されたのは1636年。キリスト教の布教を阻止すべく、市内に住んでいたポルトガル人を収容するために作られた人工の島だった。たが、築造の3年後には、島原の乱によってポルトガル人への警戒をますます強めた幕府は、ポルトガル人を国外に追放し、出島は無人の島になる。そして、さらにその2年後、幕府の信頼を勝ち得たオランダが、オランダ商館を平戸から出島に移転したことで、出島の新たな役割となった異文化交流が始まった。その後の218年の間、西欧に開かれた唯一の窓として、日本のの近代化に重要な役割を果たしたのだった。
その当時の出島にはオランダ人が住んでいた。年数隻やってくる船の積荷を保管する場所や、商館員の住む場所、船員が休む場所、そして日本側の貿易事務員がいる場所があった。建物はオランダと日本が混ざった様式で建てられている。オランダ人は、母国から遠く離れた土地で、事業を成功させるという気概と、家族からの便りを心待ちにする毎日があったのだと思う。一方、出島に入れる限られた日本人には、異文化に触れるワクワク感があり、輸入や輸出で一山当てたいという野心もあったと思う。
オランダ人も、日本人も、それぞれ立場は違えど、刺激を受け、挑戦を続けていたのだ。普通のオランダ人や日本人から見て、出島にいた人たちはかなり変わった人で、能動的に新しいことに挑戦する人だったはずだ。まさに出島にいた人たちの組織が「出島組織」のルーツなのだと思う。でも、ふと気づいたことがある。当時の出島には2つの出島組織がいたように思える。オランダ人の組織と日本人の組織だ。現代の出島組織はどちらかというと、組織本体からの物理的/精神的な距離や新たな挑戦にフォーカスが与えられているが、当時の出島では2つの出島組織が対峙していたのではないだろうか。
一つの場所に2つの出島組織があった。それらが時には敵対的になりながらも、基本的には共存共栄を図っていたのだと思う。現代的に言えば、出島組織が集うコーワーキングスペースのようなものだったのだ。時には言い合いもするが、それなりの頻度で化学反応が起きて、新たな価値創出が始まる。そんな感じだと思う。出島では何百年も前に、そんなことが起きていたのかと思うと、やはりワクワクが止まらない。
長崎県は、江戸時代の出島にならってスタートアップ交流拠点「CO-DEJIMA」を2019年、長崎市出島町に開設した。長崎市には、起業する人に最大200万円を支給する制度もあり、21年度の採択は35件に上る。出島の気質が乗り移ったのか、2021年における「新法人設立の増加率の高い都道府県」では山口県についで、堂々の2位となっている。出島組織と出島組織とが化学反応を起こす場をつくり、化学反応を量産する。起きた化学反応を組織本体にも持ち帰り、化学反応の連鎖を生む。そんな取り組みが始まっているのだと思う。
先月、出島で出島組織サミットに参加したきた。日本中から、いや世界からも出島組織の異端児が集ってきた。出島を語り尽くす中で、未来を切り開くヒントと、勇気をもらうことができた。歴史や先人の知恵の素晴らしさ、そしてそれを糧に精進する仲間の存在を改めて感じることができた。負けてられない。これからも出島組織の先鋒として、また出島組織間の触媒として、頑張っていこうと思う。