中高年のキャリアで「学び直し」は本当に必要なのか?
中高年人材のやってきたことは本当に使えないのか?
人生100年時代で、職業人生の長期化が進むとともに中高年人材の付加価値を高めようという動きが盛んだ。そこでよく用いられるのが、アンラーニングとリスキリングだ。時代に合わなくなったり、陳腐化した専門性をアンラーニング(忘却)し、新しい専門性を身に着ける(リスキリング)という動きだ。特に、人手不足市場への再配置を狙って、中高年にプログラミングやキャリアコンサルタント、社労士や中小企業診断士などの資格を取得させようという動きが出ている。
また、中高年の起業が増加傾向にあるといい、そこを後押ししようという動きもある。一昔前は、中高年の起業というと脱サラして趣味の喫茶店や飲み屋を始める話をよく耳にしたが、最近は現在の仕事の延長線上で半ば独立のような形でフリーランスとして開業するケースをよく耳にする。
しかし、引用している日経新聞の記事にて、Deportare Partners代表で元陸上選手の為末大氏がThink!にコメントしているように、本当に中高年の活躍のためにリスキリングが必要なことなのか、疑問がある。
ここでは、その根拠として2つの疑問を投げかけたい。
セカンドキャリアと「死ぬ瞬間」
1つ目の疑問は「日本型雇用で生きてきた中高年にとって、セカンドキャリアは簡単に受け入れられるほど軽いものなのか?」という問いだ。
私が大学院生として神戸大学の研究室に所属したばかりの当時、研究室では「プロサッカー選手のセカンドキャリア研究」プロジェクトに取り組んでいた。その研究成果は、白桃書房の『Jリーグの行動科学』(高橋潔、2010年)にまとめられているが、研究成果から得られた発見はある心理学の理論と非常に近しい類似性を見せた。それが、アメリカの精神科医であるエリザベス・キューブラー=ロスによる「死ぬ瞬間」理論だ。
アメリカの心理学研究は、日本人の感覚からすると「そんな研究は倫理的に認められるのか?」と驚かされることがあるが、この理論もそのような驚くべき観察からもたらされた。1965年、シカゴのビリングス病院で助からない死を迎えるのを待つ末期患者約200名と面談を行い、「死の受容のプロセス」を明らかにした。
その研究結果から、末期患者が自らの死を受け入れるのに5つのプロセスを経るという。
第1段階は「否認」だ。患者は大きな衝撃を受け、死ぬことはないはずだと否認する。
第2段階は「怒り」だ。なぜ自分が死ななくてはならないのかと怒りを周囲に向ける。
第3段階は「取引」だ。神にすがるように、何とかして生き延びることができないかと取引を試みる。
第4段階は「抑うつ」だ。死という運命に対して無力さを感じて、失望からくるひどい抑うつに襲われ、絶望から無気力になる。
第5段階は「受容」だ。第4段階から徐々に移行し、悲嘆にくれながらも、徐々に受け入れることもあれば、死を受け入れているものの一縷の希望も捨てきれない場合もある。後半になると、突然、すべてを悟った解脱の境地が現れ、希望とも別れを告げて安らかな死を受け入れる。
プロサッカー選手の選手生命は短い。平均引退年齢25~26歳で、現役で選手ができるのは平均3~4年と言われる。幼少のころからサッカー一筋で生きてきた若者が、たったの3年前後のプロ生活で引退を迎えるのは、精神的な衝撃が大きい。そのときの過程は、「死の受容のプロセス」に近いものがある。
中高年のセカンドキャリアも同じような構造を持つ。特に、伝統的な日本企業で終身雇用を前提としたシステムをとっている企業では猶更だ。20歳前後から40年以上を会社に捧げ続け、ロートルだから必要がないと会社から切られてしまう。それは、自分のキャリアを死を受け入れるのに近いことを、セカンドキャリアの問題を扱う人間は自覚しておくべきだ。
中高年は駒ではない
2つ目の疑問は「中高年のリスキリングで労働力の再配置は健全な意思決定と言えるのか?」という疑問だ。キャリアには、基本的に2つの視点が存在する。1つは外的な視点で、組織から見たものだ。出世や配置転換など、要員計画を通して従業員のキャリア開発を行う。もう1つは内的な視点で、個人が自由意志と志向で選ぶ自律的な意思決定と行動の結果として作られるものだ。転職や自己啓発、資格取得や専門職大学院への進学などが含まれる。
これら2つの視点が合致した結果としてキャリアは出来上がる。個人的な志向がどうであれ、組織の中で機会がなかったり、スピード感にズレがあると思うようなキャリアを築くことができない。反対に、会社都合のキャリアに従順になり過ぎてしまうと、自分の専門性を磨くことができず、労働市場における付加価値が上がらなかったり、曖昧なものになってしまう。
日本の組織や社会は、伝統的に外的な視点を優先して、内的な視点を軽視してしまう傾向が強い。そうすると、個人の志向や状況を考えずに、労働力の需給ギャップを優先して再配置しようと動いてしまう。しかし、実際に働く人々には感情があり、個人の志向性もある。そのマッチングをしないまま、労働力のマッチを図ると現場が混乱したり、問題が起きてしまう。
近年では、高齢だが経験のないタクシードライバーが増えたことによる問題が重要視されている。高齢者にとって、ドライバーのような肉体労働は体力を維持することが難しく、健康起因による事故を起こす確率も高まる。国土交通省によると、事業用自動車で健康起因による事故を起こしたドライバーの疾病で最多なのは心筋梗塞や心不全などの「心臓疾患」で、次いでくも膜下出血や脳内出血などの「脳疾患」が来る。
つまり、人手不足の問題から労働力の足りない市場へ中高年の人材を再配置しようという流れは、従業員の健康を守り、健全な経営を進める「健康経営」の観点からみると許容しがたい点が多数存在する。
中高年人材のこれまでを否定せず、キャリアを再構築する
アンラーニングとリスキリングを推しすぎると、言われた中高年からしてみると、これまで培ってきた社会人人生が否定され、価値がないものだと突き付けられたような形になってしまう。しかし、これまでの経験を捉えなおしたり、再定義することで、自分では気が付かなかった市場価値が眠っていたりする。
例えば、プロスポーツ選手は「競技しかやってこなかった」「私にはこの競技しかない」と断定して自分の可能性を閉じて、価値がないと思い込んでしまうことがある。しかし、キャリアカウンセリングなどの手法を通じて、キャリアの棚卸をしていくと非常に価値のある強みや専門性が眠っていたりする。
先述した為末氏も『アスリートのセカンドキャリアで大事な質問は「今まで自分がやってきたことを、競技の名前を使わないで説明してください」』だという。
中高年人材にとって本当に必要なのは、過去を否定するようなアンラーニングとリスキリングよりも、過去を活かして未来につなげるリコグニション(認知:Recognition)とリディフィニション(再定義:Redefinition)ではないだろうか。そのうえで、必要なところはリスキリングし、直すべきところはアンラーニングすれば良いのだ。