誰かを非難して「世の中を変えろ」というよりよっぽど世の中を変えられること
六本木交差点から東京タワー方面に向かって歩き、飯倉片町交差点をこえてすぐの右側にその店はある。
キャンティ(Chianti)飯倉本店である。
キャンティは1960年4月、六本木の飯倉片町8番地(いまは麻布台3丁目)に開店した。もう62年以上もここにあり続けている。
開店した頃の六本木交差点はこんな感じである。当然まだ首都高もできていない。
創業者は、川添浩史・梶子夫婦。この川添浩史氏は、幕末に活躍した土佐藩家老の後藤象二郎の孫で、父は貴族院議員の後藤猛太郎。その庶子として生まれ、資産家の川添家の養子となった人物である。
当時の六本木は六本木族といわれた若者たちのたまり場となっていたが、キャンティができてからは、そこは芸能人や富裕子女といった高等遊民の遊び場になった。
六本木野獣会という言葉があるが、彼らのたまり場もキャンティだった。野獣会は、すぎやまこういち、田辺靖雄、峰岸徹、中尾彬、大原麗子、小川知子、井上順、ムッシュかまやつなどなど錚々たる面々がいる。
野獣会自体は、当時フジテレビのディレクターだったすぎやまこういち氏が作ったグループだと本人が述懐している。すぎやま氏は、その後フジテレビを退職し、作曲家となり、あの「ドラゴンクエストの作曲者」として世界的に有名である。
キャンティには、野獣会のメンバー以外にも、作詞家の安井かずみ、加賀まりこ、コシノジュンコらも集まっていた(加賀まりこを野獣会のメンバーという記述もあるが、加賀本人はキャンティの常連ではあったが自身は野獣会メンバーではないと否定している。
どうでもいいが、当時のファッションはかっこいい。
そして、加賀まりこはびっくりするほど可愛い。
https://twitter.com/wildriverpeace/status/1308047258101841920
安井かずみを知らない人も多いと思うが、当時の作詞家としては阿久悠と並ぶ売れっ子だった。小柳ルミ子の「わたしの城下町」、浅田美代子「赤い風船」、アグネス・チャン「草原の輝き」など多くのヒット曲含め4000曲も書いている。が、有名なのは和田アキ子の「古い日記」だろう。「♪あの頃は~」という歌いだしの曲である。
他にも、後に田辺エージェンシーの社長となる田辺昭知氏や、後にアルファ・キュービックを設立した柴田良三氏 、レーサーでもあり、モデルでもあり、福澤諭吉の曾孫でもある福澤幸雄氏、フジサンケイグループの鹿内信隆氏、島津家の末裔で、今上天皇と秋篠宮文仁親王の義理の叔父にあたる島津久永氏(貴子さまの夫)、建築家の丹下健三氏、映画監督の黒澤明氏、作家の阿部公房氏や三島由紀夫氏も黒柳徹子も常連である。
また、キャンティには、まだ中学生だった荒井由実(松任谷由実)も出入りしている(中学生が出入りする場所なのか?という話はさておき)。キャンティで後にアルファレコードを設立する村井邦彦と出会い、それが彼女のデビューのきっかけになった。2枚目のアルバム『MISSLIM』(ミスリム)のプロデュースはキャンティ創業者の息子川添象郎氏であり、アルバムジャケット撮影場所は川添氏の自宅である。ちなみに、個人的なことで恐縮だが、ユーミンの曲の中で一番好きなのがこの2枚目のアルバムに収録されている「やさしさに包まれたなら」である。
以降、絢香バージョンでお聞きいただきながら読んでもらいたい。
村井氏や象郎氏はYMOを世に出したことでも有名だが、それくらいあの時代の天才たちが集まっていた場所がキャンティなのだ。
ちなみに、象郎氏は女優の風吹ジュンと結婚していた時期もあるが、婚姻中に浮気をして三角関係のもつれとなったのが、バブルの申し子といわれ、金持ちのおじさんたちを次々と手玉にとった川添明子である(風吹ジュンと離婚した後結婚して川添姓となった)。そのあたりは林真理子の小説「アッコちゃんの時代」に書かれている。
象郎氏自身も自伝「象の記憶」で、逸話をあますところなく赤裸々に書いていてとてもおもしろい。
そんなキャンティに9/21に久しぶりに行った。何年ぶりだろう。おそらく最後に来たのは1990年代末頃だったろうと思われる。
何も変わっていない。あの頃と同じ場所にあの頃と同じたたずまいでキャンティはあった。窓ガラスにバッテンが貼られているのは、台風への備えだろう。
窓ガラスから入る陽の光がとてもやさしい。ランチタイムの時間をはずしていたので、ディナーのメニューからオーダーしたチキンのソテー。
ランチとディナーの合間の時間だったので客は、自分以外には1組2名の人達だけだった。
時代によって、キャンティ的な場所はあるだろう。しかし、キャンティほど「接続するコミュニティ」たる接点はなかったと思う。居場所ではないのだ。接点なのだ。
そこに行けば、自分に刺激をくれる誰かが必ずいる。その接点が、単なる遊び仲間としてだけではなく、めぐり巡って自分の仕事につながったりする場合もある。何より、刺激ある人との接続で自分の中の創造力を増幅させたという点が大きいのだろう。そうした化学反応こそが「自分の中の新しい自分を生み出す」経験でもあり、まさに「接続するコミュニティ」そのものの機能なのだ。
創造とは孤独な作業である。しかし、ひとりよがりでは創造はできない。人とつながることで「新しい自分」を自分の中に充満させることで、自分のインサイドに「自分という協力者」を生み出す、あるいは時に自分の創造に異を唱える「自分という冷静な評価者」も生み出しているだろう。自分の中に自分を生成し、拡張する。それができるから多くが集い、多くの創造物も生まれた。
そして、その機能である各人の「新しい自分の生成」が、後の日本の文化に多いな影響を与えたことは誰も否定できないだろう。キャンティは天才たちが集まった場所であるが、それは結果論であり、そこに集まり、交流することで、天才が生まれたのだと解釈できる。
たとえていうならば、キャンティを作った川添夫婦は、江戸時代における蔦屋重三郎のようなものかもしれない。彼ら夫婦(特に夫人)のおかけで柴田良三はイブ・サンローランとも知り合いになったようなものだ。蔦屋重三郎が、葛飾北斎や喜多川歌麿、滝沢馬琴など当時の文化を作ったメンバーを世に次々と出していったように。
キャンティがオープンした1960年は、安保闘争が行われた時代でもある。デモに明け暮れた若者もいたことだろう。それはそれでいいけど、しかし、世の中を変えるのは必ずしも政治だけではない。むしろ、ここでの接点で生まれた日本のファッションや黒澤映画やYMOなどが発信したコンピュータミュージックや「ドラクエ」の音楽などの方が世界に与えた影響は大きいのではないか。
「何かを壊せ、この世を変えろ」という行動よりも「何かを生み出せ、この世を楽しくしよう」というベクトルの方が今現在の生活そのものを充実させていくことにつながり、結果として未来を明るく変えていけるのではないだろうか。
「私は別にクリエイターじゃないから、いいわ」という人もいるかもしれない。別に、音楽や映画や建築や小説だけが創造ではない。誰もがクリエイターである。自分の中にどんどん新しい自分を作り上げていくことこそが人生なのだから。そのためにも「接続」はした方がいい。人との出会いが一番の「生成」の源だから。
眉間に皺寄せて、こざかしい理屈で小難しい議論を重ねて、他人を論破し、屈服させて自分がこの世にいる証を感じようとするのもいいが、酒飲んで、美味しいものを食って、他愛のない話をし、笑って泣いて時には喧嘩もする時間はもっと大切。接続するということはひとつの摩擦でもあり、苦しみや痛みも当然ある。でも、何も考えていないようでいても、困っている人がいたら「俺は助けてあげられないけど、こいつなら力になれるかもしれねえよ、な?」と誰かを紹介する。そういう「ウェーイのつながり」は決してバカにできるものではない。それどころか、そういう「ウェーイ」こそが今までの人間の原動力だったのかもしれないと思っている。
頭の中だけで考える哲学者は世の中を作れない。何かを批判するぱかりの行動でも世の中は作れない。世の中を作るのはいつも身体を使って何かを生み出そうとした行動者である。