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エドワード・ホッパーの孤独には「やさしい時間」がひそんでいる

エドワード・ホッパーという20世紀前半に活躍したアメリカの画家がいます。彼の代表作と言えば、真っさきに挙がるのが「ナイトホークス」。深夜の食堂にいる人たちを描いた油彩画です。人の消えた通りといい、ガランとした店内といい、吹き抜けるような寂しさが漂っているのですが、しかし単なる寂しさだけではない。そこにはかすかな温かみのようなものがある。

マイケル・イグナティエフというカナダ人ジャーナリストがいます。亡命ロシア貴族の末裔。イギリスではテレビ番組の司会者としても有名で、政治家としても活動していたという多彩な人です。彼が1984年に刊行した『ニーズ・オブ・ストレンジャーズ』(邦訳は風行社)という本に、ホッパーの絵画の話が出てくる。

イグナティエフいわく、ホッパーの絵画はどれも「描かれた人物たちの孤独を分かち合う一対の瞳、非在の立会人、つまりほかならぬわたしたち自身がつねに存在している」。

孤独な人たち同士が感じる共鳴

ナイトホークスに描かれた人たちはみな孤独なのだけれども、「ああ、みんな孤独なんだなあ。寂しいなあ」と、鑑賞するわたしたちは彼ら彼女らの孤独に共鳴する。その共鳴しているわたしたち自身の視線が絵画のなかにも見え隠れしていると指摘しているのです。

わたしたちは都会に住んでいて、見知らぬ他人たちのあいだに囲まれて暮らしている。でもその「見知らぬ他人同士」という寂しさをわたしたちが共有することによって、そこには孤立した他人同士であることを超えた、ささやかな共鳴が生まれてくる。そういうほのかな温かみがあって、だからわたしたちはホッパーの絵に感銘をうけるのでしょう。

これはひょっとしたら、「共同体」の感覚なのかもしれない。

現代日本から失われた共同体感覚

人間は群れて生きる動物なので、共同体がなければ生きていけません。江戸時代から太平洋戦争までの長い時代には農村という堅固な共同体があって、わたしたち日本人の多くは村人として生きていた。戦後は農村から人口が流出し、都会に人が出てきてみんないっときは孤独になったのですが、そこで農村を代替したのが会社でした。終身雇用の会社に帰属し、社内結婚し、社宅に住み、週末は上司同僚とゴルフや野球をし、退職後もOB会に足繁く参加し、人生の終わったあとは高野山にあるような「企業墓」で供養してもらう。どっぷりと会社共同体に浸って生きる人が多かったのです。

私は昭和の中ごろに生まれたので、こういう共同体のありようをだいぶ知っています。たしかに安逸で気楽でしたが、同時に退屈でもあり、そして何よりも息苦しかった。同調圧力が非常に強かったからです。

21世紀に入って終身雇用社会が崩壊し、非正規雇用も増え、会社は共同体ではなくなった。日本人は頼れる共同体をなくしてしまい、漂流するようになりました。若い世代は共同体にあこがれを抱くようになり、これがシェアハウス生活や地方での就農を後押ししているのだと思います。さらに言えば、自己啓発系のオンラインサロンなどが流行るのも、共同体願望のひとつの表れでしょう。

息苦しい同調圧力はごめんだ

しかし古い昭和の共同体を知っているわたしのような世代から見ると、あの息苦しさや同調圧力が復活してほしくはないなあとも思います。息苦しさを回避しつつ、でも安心感のある共同体というのは矛盾しているのだろうか、ありえない可能性なのだろうか、というのはここ数年のわたしの仕事のひとつのテーマでもあります。

世界はいま、すごい勢いで都市化しています。アジアやアフリカが経済成長を成し遂げつつあることもあり、農村人口は激減して多くの人が都市に住むようになっている。日本でも、三大都市圏に住む人が全人口の半数を超えています。コロナ禍で逆方向の移動は起きていますが、人口減少と地方の過疎化にともなって、大きなな流れとして都市化がさらに進んでいくのは間違いないでしょう。

組織のありようも機動力中心に変わってきました。大きな政府や大企業というのは、20世紀初頭のふたつの大戦にあわせて構築された総動員体制の名残りであり、情報通信テクノロジーが極度に発達し、すでに工業化が完了している国には適しません。

ヤナギの枝のようにして生きていく

大きな企業にぶら下がって生きるという社会が、ふたたび復活してくるとは考えにくい。わたしたちは緊密でガッチリした人間関係の中でではなく、ヤナギの枝が水流の中を漂うようにしてこの人生をわたっていく方向へと進んでいかざるを得ない。世界は否が応でもそういう方向へと進むでしょう。

そこでわたしたちが構築できる新しい共同体とはどのようなものか。それは伽藍のようにつくられたピラミッド型の建築ではなく、もっとふわふわとした遊動的なものになるのではないかと思います。そして新しい共同体のでの人間関係は、今よりも少し遠くなる。そう、コロナ禍でソーシャルディスタンス(社会距離)が言われているように、密着距離や個体距離よりも少し離れていくようになる。

その共同体が具体的にどのようなものなのかはまだ私にもわかりません。でもそこでわたしたちが感じる人間関係というのは、エドワード・ホッパーの「ナイトホークス」の登場人物たちのようなものになるのかもしれない。おたがい寂しいけれど、でもその寂しさに、たがいが共鳴を感じるような、そういう関係。

その関係は、ほのかに暖かく、そしてとてもやさしいものになるのは間違いない。そういう「やさしい時間」を、わたしは今年多くの人と紡いでいければと思っています。




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