絶対と相対のスパイラル 〜今こそソーシャルリテラシーについて考える
お疲れさまです。uni'que若宮です。
コロナウイルスの影響が長期化してきましたが、先日こんなツイートをみかけまして、ソーシャル、リテラシーについて考えたことを書きたいと思います。
山中教授は「学問をかなぐり捨てろ」と言っているのか?
僕が結論としていいたいことは、山中教授の意見も、小野さんの意見もどちらも正しい、ということです。
こういった意見の応酬を見かけた際に気をつけないといけないことは、短絡的に両者の意見を対立させてしまう罠に陥らないようにすることです。
まず、僕はサイエンスの世界にいる山中教授が、短絡的に「学問をかなぐり捨てろ」と言っているとは思いません。たしかに感染症疫学や数理疫学の専門家ではない山中教授ですが、それらの学問を軽んじた発言ではないと思います。
山中教授がいいたいことは、エビデンスや「証明」に囚われすぎて、行動できなくなるべきではない、ということです。(「行動」については前回の↓の記事も参照ください)
これは実は、事業をしていてもよくあるジレンマです。とくに大企業ではエビデンスをよく求められます。以前どこかで書きましたが、「世の中にないようなイノベーションを起こせ!」と言われ事業アイディアをもっていくと「よし、ではそれが成功する証拠をもってこい!」と言われ、会議をたらい回しにされて延々事業を開始できない、なんていうジョークのようなことが結構起こります。
そういう失敗を実体験して、エビデンスを求めているとイノベーションはおきないんですよ、ということで「アートシンキング」的な話をすると、「じゃあデータとかロジカルシンキングはいらないっていうのか」とあたかも反知性主義であるかのような反論をいただくこともあります。でも、データやエビデンスは要らない、と言っているわけでは全く無くて、むしろそれは前提で、それを活かしてその先にいこうよ、ということなのです。
一方、小野さんが言いたいこともよく分かります。小野さんが諌めたいのは、ちゃんとデータに当たったり調べたりせず、行き当たりばったりに動くことの危険性です。何の根拠もないのにマスクやトイレットペーパーが買い占められたり、ぬるま湯をやたら薦められたりしてしまうようなことが立て続きに起こっている中ですから、小野さんは「根拠もなく短絡的に動いてはいけない」ということを言いたかったのだと思いますし、「素人竹槍戦術」という言葉にはそれが込められていると思います。
不安な時こそ重要な「リテラシー」
たしかに僕らはあまりに容易に情報に踊らされてしまいます。インターネットやSNSのせいでそれが加速しているのはたしかですが、インターネットがなくても、根も葉もないことに踊らされることは起こり得ます。
↓はインターネットがない時代にデマからパニックが起こった事例ですが、悪意のデマですらない不確かな情報から、(しかもたった一週間の間に)パニックが起こっていくさまには恐怖を感じます。
僕は、こういった群衆の間違った行動を加速するのは「不安」だと考えています。不安な時には自分で判断するのが怖くなり、誰かの意見に惑わされがちになるのです。(行動心理学的にいう「カスケード効果」というやつです)
だから、不安な状態のときほどリテラシー(情報の正しさや意義についてきちんと見極める力)が重要なのです。
絶対化の罠には相対化を、相対化の罠には絶対化を
カスケードの群集心理に囚われないようにするには、ちゃんと「自分で判断する」ということに尽きるのですが、そのためには次のようなステップがあると考えています。
罠1)絶対化の罠
第一段階の「絶対化の罠」は、目にしたことを短絡的にそのまま信じてしまうことです。
トイレットペーパーがなくなる、27℃のお湯が効く、落ち着いて考えれば因果関係はなく無根拠であることがわかりそうなことすら、不安に囚われて藁にもすがりたいような状態だと信じてしまう。そして危険なのは、こういった状態のまま真偽を確かめず周りに流されてしまったり、リツイートなどで拡散に加担してしまうことです。
→相対化で抜ける
こういった状態を脱するために重要なのは「相対化」です。ひよこへの刷り込みのように人間も最初に目にした意見にアンカリングされがちですが、鵜呑みにせずに「でもこれ本当?」と少し立ち止まって他の情報をさがしてみましょう。
反対の意見はないか?根拠はあるのか?
あたかも「本当」のように思われた情報も「相対化」すると、その呪縛から逃れることができます。
罠2)相対化の罠
しかしこれで終わりではありません。実は相対化された後、もう一つの罠がやってきます。そしてこの罠の力は情報化社会の中でむしろ大きくなっているように思います。それは情報過多により、何を信じていいかわからないという状態になる「相対化の罠」です。
相対化すると、たしかに一つのことを盲目的に信じる段階は脱せるのですが、たくさんの情報に触れることで迷ってしまうのです。こういう状態では逆に行動ができなくなり、行動できない中で情報に左右されながら、また徐々に不安が上がっていきます。よし!とある行動を取ろうと思っても、それに対する反論が無限にみつかり、もし間違っていたらどれだけ批判されるかと思うと怖くなり、なにもできなくなって窒息してしまうのです。
→絶対化で抜ける
こういう時、どうしたらよいでしょうか?最終的には「自分で考える」ということしかありません。いろいろなエビデンスがあっても、データがあっても、実はその「解釈」は一意ではないからです。「致死率1%」という情報は、ほかのもっと高い致死率の病気と比べれば「たった1%」となりますし、もっと低い致死率と比べれば「1%も」ということになります。そして人が情報を集める時間もその容量も有限ですから、原理的にすべての情報を相対比較して何かを判断することはできません。(機械学習ならもっとたくさんのデータを処理できるかもしれませんが、それとてある解釈の前提が必要です)
僕は、これが山中教授が言いたかったことだと思っています。日本では(教育においてもそうなのですが)「知識」や「情報」はあくまで手段だ、ということが忘れられがちです。
知識が「正解」を教えてくれるわけではありません。それどころか、天動説がそうだったように、ある時の正解や真理が実は誤りだった、ということすらあるのです。
「あばたもえくぼ」と「隣の芝生」
僕はなぜか恋愛相談を受けることが結構多いのですが、「絶対化の罠には相対化を、相対化の罠には絶対化を」というのは恋愛のアドバイスとしてもよくいうことがあります。
日本には
あばたもえくぼ
という諺と
隣の芝生は青くみえる
という諺があり、どちらもすぐれた実践的な知恵の言葉です。
たとえば恋愛において、パートナーを神格化しすぎてしまうと正常な判断ができなくなり依存に陥ったりしてしまいます。「依存」は自分も苦しいばかりか、寄りかかることなので相手にとっても「重く」なってしまい、却って相手に厭われたりします。そういう時には、パートナー以外の人と過ごす時間をなるべく増やして、「分散」することで価値を相対化することが大事です。
一方で、他の異性や友人のパートナーの話と比較ばかりしてしまい、なんでうちのはこんなに…と、パートナーに対して不満ばかりになってしまうこともあります。そういう時には逆に、比べるのは一度やめて、その人だけの良さを今一度見つめてみるのが大事です。
恋愛もそうですが、価値というのは最終的には人それぞれですから、自分が納得できるか、ということはやはり重要だと思います。統計やデータはもちろん有用ですが、それを知った上で「自分」はどう考えるか。
そしてもう一つ恋愛でも大事なのは、一方的に自分の考えを押し付けるのではなく、対話をしていく、ということです。しかし、そのための前提として、自分で考えることは大事なのです。
何かを鵜呑みにして反射的にシェアすることが「ソーシャル」ではありません。そうではなく、ちゃんと調べて、自分で考えた上で、それぞれの考えを交換してはじめて、独りよがりではない本当に民主的な「ソーシャル」が形づくられていくのではないでしょうか。