国や社会との関係を主従でも雇用でもなく、「株主」として、「子育て」として考えてみる
お疲れさまです。uni'que若宮です。
今日は国や社会について、子育てのように「育てるもの」と考えてみませんか、というお話を書きたいと思います。
国と国民は主従関係?
かつて、絶対君主制や貴族制、封建主義においては国と民は「主従」の関係でした。「君主」「領主」が国の権利を持ち、土地は領主のものでしたし、また民も領主の所有物のようなものでした。領主に保有され隷属した民は、領主から与えられた土地というリソースを使って生産活動を行い、そこから「年貢」を納める義務があります。
このモデルでは明らかに「領主>民」という主従のパワーバランスと権利の優劣があり、民は領主に生かされ領主のために生きていました。民が「年貢」として納める税金は民の同意に拠らず領主から課される義務です。
こうした「領主」を主とした社会システムから、民主主義ではその主権が「民」に移ります。現代の日本では、民主主義においても、反転した「主従」感覚があるかもしれません。
「民主主義」は「民」が「主」と書きますが、国民はしばしば「委託先」に対する「依頼主(クライアント)」のように振る舞い、国や行政の「サービス」に不満をぶつけることもあります。
「サービス」とは「仕える」「召使」という意味を持つ「servus」を語源としていますが、「公僕」という言葉もあるように、ここでは君主制や封建制とは一転して国民が「主」となり、税金を払っている、という理由で国や行政に優越した感覚を持つこともあるのです。
かつて君主制や封建制では「年貢」という領主から課される義務であった税金ですが、資本主義ではお金を払う方が主(あるじ)となり、主従は逆転します。
いずれにしてもこうした一方的な上下関係においては、どちらかが「主」を僭称し自分達が優越すると考えられた時に変質し、前者的な国>民の関係は全体主義に、国<民の関係はポピュリズムに陥る恐れがあります。
国と国民は雇用関係?
あるいは主従ではなく、ともに協力して営まれる共同体、という意味では企業の雇用関係に似ているかもしれません。
ただここでも「雇用主」の方がやや強い立場でしょうか?
国と国民の関係でいうと、国=雇用主、国民=従業員というイメージの方が強い気もします。
従業員が所属する会社に対してある程度従属するのと同じように、国民は国のルールや意向に従い、その発展や存続のためにある程度従う(ときにはプライベートも犠牲にして)という感覚がとくに昭和までは強かったのではないでしょうか。
「愛社精神」が言われる時には、個人よりも組織や全体の意向が優先され、同調圧力も強まります。組織や全体に服従する方が理想的な社員であり、上司や会社に意見する社員は排除されがちでした。
しかしその一方で従業員の側も、経営に対しどこか他人事になりがちだったりもします。会社の業績が悪いのは経営者や会社の責任で、自分は言われたことをやって決まった月給をもらうのが仕事、と割り切っていたりもします。「主従関係」ほど対立的ないしは一方的関係ではありませんが、両者には分断も生まれがちです。
従業員からすれば「経営者の無能のせいでなんで給料減らされきゃいけないんだよ。役員を減給か首にしろよ」という不満が、経営者からすれば「経営の大変さや心労も知らないで権利だけ求めるんじゃない」という不満が生まれます。
国民と国との関係も似ているところはないでしょうか?経済や社会福祉などが良くない時、「お上(だけ)が悪い」という風に他責にしがちなのは企業の従業員に似ている気がしますし、政治家の側にもしばしば「大衆のわがままを聞いてられるか」というような態度が透けて見えるときがあります。
ただ、実は国と国民の関係は雇用関係を超えたものです。
日本は「国民主権」を謳っています。これは国民が国の「オーナー」だということです。企業に例えるとこれは「株主」に当たりますね。
株主は議決権や議題の提案権、決議の取り消しを求める権利や取締役等解任請求権など、経営に参加し、経営者を監視する権利と責任を持ちます。
国民はただ国の命令に従う従業員ではなく株主です。所有と経営が対等であるように対等な関係です。そしてもし国の経営が悪いのだとしたら、株主もまた無責任ではいられません。議決権をしっかり行使することは、株主の責務でもあります。
そしてもし国民が株主だとすると、税金は年貢でも委託料でもなく、出資金に近い感覚のものになるのではないでしょうか。自分が投資したお金がどう使われるか、株主としてしっかり経営に関与し、それを将来の成長のために使われるようにしたいですよね。
国と国民は親子関係?
「成長のための投資」として考えるなら、もう少し別の例えもできるかもしれません。
国と国民の関係を親子関係、「子育て」だと考えてみるとどうでしょうか?
「親子」にたとえるというと、なんとなく「国の方が親で国民が子供」という風に思えるかもしれません。しかし僕はその逆に国民=親で、国=子として育てるものというふうに考えてみてはどうかと思っています。
国民の方が親で国が子供、というのはちょっと奇異なたとえに思えるかもしれません。国のほうが大きい存在ですし個人よりも長い歴史をもっているからです。そして、国が国民を子供のように「しつけ」るべき、と考えているたしかに政治家も一定いる気がします。
しかし「国民主権」から考えれば国を育てるのはむしろ国民です。そして国や社会はたしかに一見長大な歴史をもってはいますが、どんどん変化しています。「国」という形は確固としてあるのではなく、貴族社会や武家社会、帝国主義とたびたび生まれ変わってきたのであり、「日本国」「日本国民」という概念はそれほど長いものではありません。そしてこれから国や社会は今また変革期を迎えています。それをどんな風に育てるかは、僕たちの関わり方にかかっています。
国や政治を少し批判しただけで「愛国心がない」とか「非国民」「売国奴」と言う人がいます。しかし無批判に常に肯定することは本当に愛情でしょうか?それは子育てで考えると、過保護なだけではないでしょうか?
もし子供が間違ったことをしたら、ちゃんと叱ることも大事でしょう。しかしそれは他人事の評論や自分の正当性を主張するための否定でもありません。親として子供の成長にも責任をもち、その将来を考えるからこその厳しさです。
「愛情」とはただ肯定するのでもただ否定するのでもなく、自らもその将来を考え関与しようとすることではないでしょうか。
国や社会との関わりを「子育て」だと考えれば、税金は国や社会を育てるための教育投資のようなものかもしれません。それは投資ですが、「株主としての投資」ともさらに求めるリターンやその時間軸が変わってきます。出したお金が自分に返ってくるか、というだけではなく未来のためにお金を託すのです。その時ひとはお金をどんなことに使痛いと思うでしょうか。次の時代に、自分がもう死んだ後にも想いをはせながら、未来の可能性のために使いたいとおもうのではないでしょうか。
国と国民は主従関係や一方的な上下関係ではなく、経営と株主のように対等で協働的な関係です。そしてもっといえば、親子のような関係だと思えたらよいのかもしれません。この国の民主主義はまだまだ未成熟なようにも思えます。時にはがっかりさせられるようなこともあります。でもいいところや未熟ながら伸びしろも沢山あります。そうした可能性を伸ばせるように、時に厳しくも、未来に向けた愛情をもって国を「子育て」する、そんな風に考えるだけで、社会との関係も少し変わってくるのではないでしょうか。