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「アートシンキング」なんて、なくなればいい。

「アートシンキング」や「アート思考」についての話題になると、こんな反応をちらほら見かけます。

「アートシンキング」とか「アート思考」なんて、一過性の流行りものでしょ?

僕の見解はこうです。

その通りです。「アートシンキング」なんて、いずれなくなるものです。

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(ビジネス界からの) 「アートうぜえ」

アートシンキングなんて一過性」とわざわざ言われる理由には、二種類の拒否反応があるように感じています。

ひとつはビジネスの人などアート界の外からの反応。「流行りもの」というDISりの裏には「アート、アートとクリエイターぶるな」というような批判も見受けられます。『リーンスタートアップ』でも何でも、新しい言葉は「一過性の流行りもの」と言われることがありますが、それだけでなく以前からネットなどで「アートうぜえ」という言葉があるように「アートシンキング」へのネガティブな反応の裏にはどうもアート自体への拒否反応もあるようです。

書籍を読んで頂いた方からの反応で驚いたのが、(とくにビジネスパーソンの)多くの人がアートに対して苦手意識、あるいはアレルギーさえをもっている、ということ。

先日青山ブックセンターで、日経COMEMO仲間で・仲良しの・仲山進也さん(韻踏み)との対談イベントがあったのですが、

仲山さんからも、第一声、

いや、質問というか、まず読んだ感想として、「アートの見方ってこれで良いんだ!?」って思った、「早く言ってよ!」と。

という感想をいただきました。

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photo by むねさださん

実は出版後、他の方からも同様の感想をとっても多く頂いてびっくりしています。多くの人がおっしゃるのが「アートってなんか難しくて…」とか「僕はアートのセンスがないから…」ということ。

こういった苦手意識がある人にとって「これからはできるビジネスパーソンはアートを嗜まなきゃね!」って言われると、なんかちょっとめんどくせえな…って思いますよね。

しかもその時に、アートに予めある種の権威付けがされていたり正解が想定されていたりすると拒否反応が増大してしまいます。これは感覚でいうと、ワインに詳しい人にワインを薦められているようなもので、下手な感想をいうと「え?こんなのもわからないのww」と言われそうなプレッシャーがあります。


しかし、僕の考える「アートシンキング」は、

アートにはそもそもひとつの正解はなく、多義的である

という立場であり、むしろ多義性があり、一意ではないからこそ鑑賞者に起こる「触発」こそが、アートの価値だと考えています。

こう言うと「どんな解釈をしてもよい」「アートに良し悪しはなくて、みんなちがってみんないい」という短絡的相対主義に取られそうでそれはまたちょっとちがうのですが、少なくとも「こう解釈しなければ間違い」とか「格付けチェック」的に「どっちがいいかわからないやつは三流」ということはないのです。


(アート界からの) 「にわかが荒らすな」

一方、アートサイドからの「アートシンキングなんて一過性」は、「ビジネスがアートに介入するな」「素人が口を出すな」という反応だったりします。

たとえば、さきほどのように「正解はない」などというと「アートはそんな簡単じゃない、これだから素人は」というようなことをやんわり言われることがあります。

たしかに、アートを味わうためにはある種の知識や訓練は必要です。しかし、(ちょっと込み入った議論になりますが)アート作品の意味は「題材」や「作者の意図」だけには還元できませんし、またその価値は美や巧拙だけで測れず、不変なものでもありません。(今や押しも押されぬ近代絵画の巨匠であるモネやマティスやピカソもその当時には「なんじゃこりゃwww」と思われていました)

アートの意味や価値は完全に相対的・恣意的ではありませんが、といってなにか「正解」があるものではないのです。美術史を知らないでアートを観るなんて意味がないと言う人もいますが、僕はそうは思いません。もちろん美術史を知ることは大事ですが、それは作品をより深く味わい楽しむためにプラスになるという意味においてであって、第一義的にはアート作品に鑑賞者が自分なりに向き合うことが大事で、知識を要件として鑑賞体験を否定するのは本末が転倒していると考えます。

このような反発は、アートに限らずバンドの古参ファンが新しいファンを「にわか」と呼んで下にみたり排斥するのと少し似ている気がします。それは実は「愛ゆえ」で、たしかに「にわか」が大切に育ててきた田畑をイナゴのように食い荒らしてしまうこともあるのでこの反応もある程度やむを得ないかもしれません。(アートからみるとビジネスというのは特に「イナゴ」のように見えているようです)


もっと気楽にアートを楽しんでみません?

このように両者からの反発は、実は「ビジネス vs アート」間のお互いの苦手意識からくるもののように思います。ビジネス側には「アートってわかんない…」というコンプレックスから「アートなんか自己満でしょ?知らなくても生きていけるっしょ?」というような人もいますし、逆にアート側にも上手く稼げてないコンプレックスから「金の亡者が!」とビジネスを毛嫌いする人もいます。アートシンキングは、ここに橋をかけたいと思っているのですが、喧嘩の仲裁に入ると仲裁者が双方からキレられるように、双方共から反発を受けてしまうことがあるのです。

実際のところ、わざわざ間に入って混ぜるようなおせっかいはやめておけ、という話かもしれないのですが、しかしそれにしても、日本人はアートに触れなさすぎです。自著から引用します。

アートに使われるお金、すなわちアート市場の規模も、 世界では7兆円もあるのに、日本のアート市場はその1%以下、たったの2500億円程度しかありません。米国が3兆円、中国やイギリスのアート市場が1兆円以上あるのに比べると先進国の中ではかなり低い状況にあります。これがどれくらい低いか、たとえばスマホゲームの市場と比べてみましょう。スマホゲームの世界市場は15兆円ですがうち日本市場は2兆円。1割を超えており、米国、中国についでなんと世界第3位につけています。日本人はスマホでゲームをする10分の1しかアートにお金を使わないのです。

アートの面白さや価値を実感しておりビジネスの場にもいる人間として、これはやはりあまりにもったいなくて、おせっかいを焼きたくなってしまうのです。


アート界のみなさんと話したいこと

たとえば、サッカーという文化が継続し盛り上がっていくためにはサッカー人口を増やすことが必要です。そのためにはまずサッカー自体を楽しむというところから始めていくべきでしょう。

もし、サッカーを始めたばかりの子供がプロの選手から、「お前のはサッカーじゃない」とか「下手くそがゲームに入るなよ」といわれたら、おそらく二度とサッカーをしたくなくなるでしょう。アートについても同様だと思います。「わかってない」じゃなく、楽しみ方を一緒に考えてほしいのです。それは素人に阿ってレベルを下げることではありません。プロにはプロしかわからない深い世界があるでしょう。ですが、その世界への扉を閉じるのではなく、徐々に深い世界へと面白さを知ってもらいながら連れていって行ってほしいのです。

「アートシンキング」は、アート的なクリエーションに倣うため、アートを紹介introduceしますが、それはあくまで導入introductionでしかありません。そこから先に、アートを楽しむ人を増やすことはアートワールドのみなさんと話し一緒に考えていきたいです。


ビジネス界のみなさんと話したいこと

ビジネス界のみなさんに言いたいのはまず、アートにそんなに構えないでほしい、ということです。無理に知ったかぶりをする必要もありません。かといってシャッターを締めず、まず「分からない」というところから触れていってほしいのです。すぐに何かが変わるものではないかもしれません。「わからんなー、何考えてこれつくってんだろなー」でよいのです。ある意味ではそれが一番正しい鑑賞の態度なのです。日本人は(と書くと主語が大きいと叱られそうですが)、作品そのものは10秒もみないのにキャプションや解説の方を長く読みがちです。しかし、これは鑑賞態度としてはまったく逆なのです。まずは作品をじっくりみる。じっくりそれに向き合って、やっぱりわからんwwwとなるかもしれませんが、逆になんでこんなものをつくったんwww、と疑問や興味が出たらしめたもの、美術史や作者について調べてみましょう。徐々に楽しみ方がわかってきます。

そしてもう一つ、アートを見ればすごいアイディアが湧く、アートが答えをくれる、という幻想も捨てましょう。アート思考のイベントなどをすると「つまりアート思考なら当たる新規事業がつくれるんですね?」とか聞かれるのですが、すみません、そういうものではありません、と答えます。

先日のイベントでモデレーターをしてくれた濱田織人さんと以前に話した時、「アートシンキングはコンピューターのOSやBIOSのようなものだね」と言われたことがあるのですが、まさにそのようなイメージをもっています。

それはなにか特定のお悩みや課題を解決するものではありません。特定のお悩みを解決するソリューションやそのアイディアは、スマホでいえば「アプリ」です。しかしアートシンキングは何かを解決する便利アプリではなく、いわばOSのアップデートなのです。

OSは特定の機能を提供するというよりは、リソースの管理やファイルの管理、そして色々なデバイスや機能にアクセスするAPIなど、アプリのためのベースの機能を用意するものです。ここが豊かになることは何か特定のソリューションというわけではありませんが、それぞれのアプリの可能性を増やしてくれます。

OSに新しいデバイスAPIが追加されれば、各アプリの可能性が増えるように、ロジックにだけアクセスできるより、デザインにもアートにもアクセスできるOSであるほうが新しいアプリの使い方が生まれます。また組み合わせによりアプリの安定性や処理速度もあがったりします。

アートシンキングがすることはOSのアップデートです。それをOSに追加インストールすれば「自分」というリソースに改めてアクセスできるようになり、「新規事業」や「教育」や「働き方」や「地域創生」など、色々なアプリで新しいアプローチが生まれたり、パフォーマンスがあがるはずです。

それゆえ、アートシンキングは「アート」の話というより、「子育て×アートシンキング」や「働き方×アートシンキング」、「地方創生×アートシンキング」など、色々な分野と掛け合わせた時に意義が生まれていくと思っています。そういう可能性を様々な業界の方たちと考えていきたいです。


OSはいずれ、見えなくなる

アートシンキングをOSのアップデートだと考えれば、アプリを使う際にOSの機能がいちいち意識されていないように、それはいずれ見えないものになると思っています。

いま、「アートシンキング」や「アート思考」とわざわざ「アート」を掲げて言うことには違和感をもたれる方も多いでしょう。そんなもの知らなくてもすでに出来ている人からすれば何を今さら、でしょうし、「アート」だけ特別扱いすな、と思う方もいるでしょう。

しかし、僕だけではなくいま同時多発的にわざわざ「アートシンキング」という言葉が言われているのは、まだまだアートへのアクセスが異常に低かったり、ビジネスの現場でロジック偏重がすぎて閉塞感が生まれている、という現状があるからです。

「女性活躍」についても同じような状況があります。弊社uni'queでは「女性が当たり前に活躍できるスタートアップ」というのを掲げていますが、そうするとわざわざ「女性」って特別扱いするのおかしくない?と言われたりします。でも現状がまだまだなので「今はまだ敢えて言う必要がある」のです。

ふたたびOSに喩えていうなら、OSでもこれまでなかった新しいAPIが新しく追加されればリリース時には一時的にそのことがフィーチャーされます。しかしそれは一過性で、そのうち当たり前になります。いまの時代に「婦人参政権」をわざわざいう必要がないのは、社会がすでにアップデートされたからです。


もっとアートが身近になり、「アートシンキング」という名前で今呼んでいるアプローチがもっと当たり前になれば、「アートシンキング」なんて言葉は死語になるでしょう。

「アートシンキング」なんてあまりに当たり前過ぎて、新しさもカッコよくもなくなり、わざわざ言わなくてよくなること、「アートシンキング」という言葉がなくなってしまうのが、本当は一番いいなと思っています。

一番怖いのはそれがインストールされずOSをアップデートすることもなく消えてしまうこと。もしそうなればこのブームの反動でアートへの興味が今よりも下がってしまうかも知れません。そうならないよう、本質的にアートの価値がもっと楽しまれ活きるように、アート・ビジネス双方のみなさんと話していきたいと思っています。


おまけ:「アートシンキングの学校」はじまる

「アートシンキング」は本で読んだり、知識として座学で勉強するものではありません。大事なのは体験です!・・・と、いうことで、日経COMEMOイベントとして『アートシンキングの学校』というシリーズイベントを開講することになりました。

正式開始は4月からですが、プレイベントとして2019/2/19(水)にいま僕がもっとも注目する声のアーティスト・山崎阿弥さんを一緒にパフォーマンスとクロストークを行います。詳細は後日!お楽しみに!

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