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分断が進行していると言われる社会で、本当に分断されているものはなんなのか

(1)社会の分断というビッグワード

分断化社会。いつ頃言われ始めたのかも定かではないのですが、おそらくは小泉首相の新自由主義的な改革以降、徐々に「一億総中流」とかつて呼ばれた日本の産業構造が転換し「格差社会」が到来し、それがその後、日本の「分断化社会」への準備になったというのが、一般的な回答になるでしょうか。

ところで、格差社会と言われ始めていた頃は、その格差とは、経済格差であることが一般的な了解事項であった気がしますが、現在、それより目にするようになった「分断化社会」とか「社会の分断」と言われるとき、その「分断」とは、根本的に何を指しているのでしょうか。ふとそんな疑問を感じたんです。そこで、日経の記事をいくつか調べてみました。

例えばオリパラとコロナという視点から見ると、「世界の分断」になるのでしょうか?

アメリカに目を向けると、「人種的な分断」が問われていました。

例えば気候変動も「社会の分断」を呼ぶとこの記事は書いています。

都市と田舎の環境の違いという「分断」も指摘されています。

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(2)そもそも何が分断されているのか

このように挙げてみると、分断というのは、今ではあらゆる領域において世界を蝕んでいる宿痾のように見えますが、こうして挙げてみても、「では一体何が分断されているのか?」という根本的な部分が見えてこない気がするのです。

人種や国家のような、具体的な対象が分断されているならばまだしもわかるのですが、例えば環境だったり世代だったりが「分断」されている場合は、一体本質的には何が分断されているのか極めて見えづらい。何か考えるヒントがないかと記事を探していると、こんな記事を見つけました。

この記事の冒頭で、こんなふうに書かれています。

読者の皆さんは、どのような社会が理想の姿だとお考えでしょうか。新型コロナなどの感染症がない世界と答えるかもしれませんね。貧富の差が大きくない世界、宗教や価値観の違いを認め合い分断のない社会、安全・安心な生活空間などでしょうか。

社会の理想の姿の一つとして「分断のない社会」が挙げられている。分断したものをここまでは上げてみましたが、「分断のない社会」のことをすっかり忘れていました。もうそんな社会のことを想像することさえなくなってしまったものですから。

そう、これはおそらくヒントなのでしょう。社会が様々な形で分断されていると言われているとき、おそらくその根源にあるのは「宗教や価値観」と言った不可視の存在が分断されている。そしてそれをより分かりやすく言い換えるならば、分断社会で分断されているものは、「共有知識」と呼ばれるものであるということなんです。

記号論の話なのでやたらに難しく見えますが、要は『「ある集団においてAという知識をみんな知っている」ということをみんな知っている』という状態のことを指します。これでもややこしいですね、ごめんなさいね。

「みんなで大体共有できている知」はかつてはありました。上で示されている宗教はまさに西洋の世界ではそうだったでしょうし、「大東亜共栄圏」なんてのも、かつて日本では「共有知」として機能していたのでしょう。もっと卑近な場所へ寄せるなら、1970年代生まれの僕らにとって、土曜の夜は「8時だよ全員集合」組と「オレたちひょうきん族」組で分かれていて、誰がどちらの派閥なのかは一目瞭然でみんなわかっていました。

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(3)共同幻想の終焉

さて、この極めて個人的な例を挙げて伝えたいのは、「そんなわけない」のです。「一目瞭然でみんなわかっていた」なんてことは、あり得なかったんです。

クラスメートの青山くんや山田くんはオレたちひょうきん族を見ていたようなことを言ってたのですが、どうも話が通じないので問い詰めてみると、実はドリフの方が好きでした。当時クラスは「オレたちひょうきん族」派が多かったので、彼らはそのフリをしていたんですね。逆に僕はというと、両親がビートたけしさんや明石家さんまさんの芸が好きではなかったので、家でドリフを見ていたのですが、親がいない日はこっそり「オレたちひょうきん族」を見て、クラスの話題について行けるように頑張っていました。

「共有知」なんてものは、実はこの世界にはほとんどありえない、それこそ記号的に特殊な「設定」に過ぎない。でも問題は、そのような「共有知」があったような気分がかつては存在していたこと、そしてそれがある程度機能していたこと。それこそがまさに、かつて様々な小集団の思想的な、文化的な、社会的な、構造的な紐帯を深める役割をしていたんです。つまり「共有知に見える物語」が、「共同幻想」として機能していたのが、おそらく20世紀後半までだったのです。「一億総中流」などという「共同幻想」が、あり得ないとわかっていても、ある程度機能していたように。

ところが、ニーチェが神を殺し、バルトが作者を殺し、リオタールが「大きな物語の終焉」を宣言したポストモダンが徹底された21世紀、ついにその「共同幻想」が潰えてしまった。21世紀とは、「共有知がなくなった時代」ではなく、「共有知なんてものは、そもそも最初からどこにもなかったんだ」ということが、グロテスクなほどに可視化されてしまった時代なんです。それは思想的虚無であり、社会的絶望であり、前に進もうとする力を骨抜きにして、生きる時の安心を根腐れさせるような「諦念としての現実了解」が、我々の心のどこかに棲みついてしまったような、そんな時代だということです。

だから、あらゆる物事の間に最初から潜んでいた「亀裂」が可視化される。かつては幻想によってカバーされ、見えない形に埋め込まれていたそれらが、剥き出しの裂け目としてあらゆるところで噴出する。誰もが違う前提で話をして、それを回収することのできる「物語」が存在しない。分断した社会とは、つまり、依拠枠組みのない価値観をそれぞれが抱えて、共通理解ないまま、己の独り言だけが虚しく反響する社会であるということです。

さて、そんな世界だからこそ、もう一つ重要になってくるのが、フィルターバブルとエコーチェンバーという、まさに「分断の申し子」のような現象です。そしてこれらはコロナ禍にあって、陰謀論やフェイクニュースといった、情報化社会の癌ともいうべき病巣の根源でもあります。これらはまさに、共同幻想が機能不全を起こし、隠されていた亀裂から湧き出してきた亡霊のような現象と言えるでしょう。どうやらこれに関しては長くなりそうなので、今回の「共同知識」や「共同幻想」といったお話と合わせて、次回に話したいと思います。

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