抽象レベルの理解と伝達には時間軸や立体感覚が有効ー風景が大切な意味
今回は風景の話です。でも、ちょっと変化球でいきます。
テキスタイルのメーカーやデザインスタジオを訪ねていつも驚くのは、テキスタイルのアーカイブを充実拡大させることに投資を厭わないことです。
この産業はかつてどこの国のどこの地域にもありました。だが、地域間の競争にさらされ、廃業する企業が出やすい。そうするとその企業がもっていたアーカイブを競合他社が買収していくわけです。
こうした数々の買収により自社の社歴より古いアーカイブが持てれば、デザインに限れば極端な話、創業からの年数などどうでもいいのです。イタリアのある企業の商品開発マネージャーから聞いた本音は、「およそ300年分の柄を手元にもっていれば、新商品開発のネタにはほとんど困らない」というものです。それらを今の先端技術のテキスタイル上でアップデイトすれば、とりあえず伝統的パターン(例えば、花、鳥、幾何学模様など)についてはカバーできる、と。
ぼくは、この経験をテキスタイル業界の特徴として長い間収めていましたが、最近、別の領域にも適用すべきではないかと思い始めました。なぜなら歴史やアーカイブとしての風景は、今に生きる我々が生きやすくなる礎だろう、と確信を持ち始めたのです。
抽象的な言葉や思考が氾濫している?
知的労働者の増加やバーチャル手段の普及から、人々は抽象的言葉や表現を多用するようになっていると感じます。英語の本で「形而上学」という言葉が1800年からどの程度の頻度で使われているかを調べてみると、1980年を境としてより頻出しているのが見えます(下図)。
言うまでもなく、この言葉だけで抽象的な表現の推移を判断するのは無茶です。もっとたくさんの言葉で判断しないと正確を期することができません。ですから、あくまでもぼく自身の印象をベースとした話です。ただ、最近日本語でよく聞く「言語化された」「解像度があがった」という言葉の頻度の多さは、抽象度の高さに溺れている状況を逆に指し示しているのではないかとも感じてきました。
実は、ぼく自身、これまでの認識を変えないといけないかなと思うことが多々あります。例えば、西洋言語の抽象的な言葉は日常生活でも使う言葉が多く、西洋言語使用者においてさほどの壁を感じない、とよく言われ、ぼくもそう思ってきました。しかしながら、欧州人も抽象的な言葉では「腹落ちしていない」とこぼす人が少なくないです。それこそ毎日の生活に紐づいた抽象的な思考はいざ知らず、自分のよく知らない領域においては「よく知っている抽象表現」といえども、やはり理解しづらいです。
これをこの10数年、ビジネスの非クリエイティブ分野に普及してきているデザインという領域でも感じます。いろいろな人がそれまでデザインの正統とされた建築やプロダクトデザイン領域以外からデザインを語り使うようになりました。UIやUXあるいはサービスデザインなどです。そこでデザインとは何か?を基礎から理解した方が良い人が増えています。このような人たちが、いざデザインを学ぼうとしたとき、やはり抽象的な言葉の数々に戸惑うのです。物理的なものや五感が手助けすることなしに、概念を自分で使えるように理解するのは至難の業です。
次のようには言えそうです。抽象表現が本当に増加しているかどうか真実は分かりませんが、人々の生活の分野が軸線を徐々に変えつつあり、どうしても知らないことを学ぶ必要が増えています。その場合、当該分野の概要や定義を把握するに抽象表現に立ち向かうシーンが頻繁に生じているのは確かなようです。そして、そももそ論として、人はそうたくさんの抽象的表現や概念を理解できるものでもないとの現実と向き合わないといけません。
易しい表現に変わればいいのか?
抽象表現とより付き合わないといけないとすると、発信者としてどう伝えるか、受信者としてどう受け取りやすくするか、これらがテーマになります。日本語で言えば「ひらく」と言われる、漢字ではなく、ひらがなに置き換えるのも一つでしょう。そして、日常生活で皆が「これはこうだ」と思い誤解が生じにくい言葉を務めて明確に使う、というのも確固たる手法です。
あるいは、メタファーを使うのも常套手段です。メタファーは何でもよいですが、皆が共有経験としてもっているモノであったり、習慣であったり、風景であったりを適用することです。例を挙げます。
1960-70年代、スイスの時計産業が安価なムーブメント、次にはクオーツで大打撃を受けた後、1983年、スウォッチが誕生します。クオーツは安物の時計という市場をひっくり返し、お洒落なプラスチックな時計で一世を風靡しました。その際に経営トップのハイエクが使ったメタファーはネクタイです。「ネクタイなら毎日変えるためにたくさん持つ。これからは時計もネクタイと一緒だ」と一生モノの宝飾品から時々のファッションアイテムに意味が変化することを表現したのです。
こういういくつかの手段がありますが、もっと根本的な方法を常に考慮しないといけないのではないかと考えます。表現を易しくしたり、メタファーを導入するだけでは概念の構造を掴むに至らないからです。
立体感覚と時間軸を導入する
抽象性のある内容は、当然ながら言葉や概念の定義に鋭敏にならざるをえません。すると定義の羅列になり、往々にしてそれらは二項対立的な位置に嵌り込み、字面の差異を追っただけでは前進できない羽目に陥ります。
どうしてでしょうか?ある分野のそれぞれの言葉の定義は、ある段階に瞬間的に一律に法律のように決めたものではなく、ある一定の時間のなかである行動や発言が立体的に展開され、それらが一括りされた結果であることが多いからです。「いろいろと経験したこれらの事柄を、こういう名称でまとめよう」ということです。それを無理に平面的に少ない軸だけで決定打となる定義を期待すれば、極めて難解な表現にしかなりません。
「君、もっと易しい言葉で短く表現しなさい。それができなければ嘘だ」という忠告が、単にもっともらしいだけで実はモノゴトの理解の仕方について緩いことをバラしているに過ぎないことが多い、というのはこういうことです。
一番、効率よく実態に即して理解するのは、その分野の歴史を知ることです。どのように人々が議論し、トライアンドエラーを重ね、具体的に何を作り、何が上手くいき、何が失敗したのか。つまり、博物館や美術館とは、ある分野の概念を立体的に理解するために存在する意義があるとも言えます。
風景や街もアーカイブである
ここで冒頭のテキスタイルのアーカイブも想起されるのですが、実は、一般に皆さんがアーカイブと思うものー博物館や図書館ーだけでなく、街や田園の風景もアーカイブではなかろうかと僕は考えるようになりました。
コミュニティの生活のありようや歴史感覚あるいは美的感覚の総体として風景があり、これは時間を経て厳選されてきた(逆に美しさという物差しをまったく無視する、との皮肉な現象も含めー日本の電信柱が並ぶ街並みは景観としては美しくないが、日本の文化の理解には貢献する)考え方のアーカイブだと思います。風景だけで、そこにある文化体系を理解するには相当の時間を要しますが、一方、抽象的なローカル文化の解説を見たり聞いたりするだけでも理解できないのです。
ある分野のこと、あるローカルのこと、これらを自らの力で把握するにあたり、1) 歴史 2) 抽象的言葉で表現された定義や構造 3) 視覚などの五感を使って風景を眺める という3つの要素を総動員しないと、あるレイヤーにおいてはなんとかなっても、次のレイヤーにいくと行き詰ることになります。自ら使えるレベルに到達しない。したがって、これらの3要素を欠かさずに全体像に迫れる環境が大切です。
もちろん、自分の当該分野が住んでいる土地ですべてをカバーできれば理想です。ただ、前述したように、現在の問題は新しい分野に移るか拡張するにあたり、こうした環境がより必要なので、仮に複数拠点での生活を考えるのなら、この視点による条件の組み合わせが一つのアイデアになります。または、少なくても、こういう条件を常に意識できる環境が求められます。
最近、パンデミックの影響で都市のマイナス面がよく語られます。殊に知的労働においては自然の環境があれば十分と思われがちです。そして地方移住の希望者が増えているとのニュースを日本に限らず、いろいろな国の動向として読みます。その際、上記3つの条件を考慮して検討するのは、特に知的労働者ほど重要ではないかと考えます。
欧州は第2波によって苦境に陥っています。地方に移動する人もいます。そのなかで滞在選択先として、地方の小さな都市を候補にあげながら、その都市が歴史的なアーカイブが充実した場所かどうかを考慮に入れている人をみて、やはり分かっているなあと思うのです。
写真は©Ken Anzai