屏風の虎をつかまえよ ― めんどくさい日本⑤(最終回)
下剋上・部下ファーストの時代。
いちばん下の人が偉そうにしているように見える。「なんでわからへんねん」という若者と、「まぁ、それでええんとちゃう」とものわかりのいい、しかし新しいことについていけない年輩者たちがいる。新たな技術、とりわけITの拡大によって、「デジタルネイティブ世代と、それ以上の世代」との間に断層ができている。
若者が会社で威風堂々となるのは、新技術が理解できない年輩者が多いからだけではない。年輩者にとって、めんどくさいことにならないように若者とかかわらないようにしている。話が通じない世代と議論するのはうるさい、めんどくさい。リスクマネジメントやらハラスメントが、その「横暴」を助長し、どんどん無法地帯に入っていく。そうやって傍若無人に自分の思いどおりにしていると、新たな若いだれかかが現れ、今度は自分が「うるさ」がられて飛ばされる。
うるさいこと、めんどくさいことから逃げる ―― これが日本を弱くしている。イチから製品をつくりなおすのはめんどくさい、そこそこうまくいっているのだから問題ないじゃないか、まだおかしくなっていないのに変えなくてもいいんとちがうか。変えて失敗したらそれこそ大変、変えるのはめんどくさい。
他に視る番組がない時、「ジャパネットたかた」の番組を見るとはなしに視る。この番組では、高田元社長時代から後任の人たちもずっと喋りつづける。ひとつの商品を10分も15分も20分も長い時間、語りつづけることがある、すごい。縦から横から、上から下から、右斜めから左斜めから、多角的多面的に、「ジャパネットたかた」の使用者、生活者視点で商品観を語ってくれる。圧倒的にわかりやすい。なるほど!いいな!と思って、そもそも幾らなんだろう、商品の価格を知りたいと思っても、なかなか言ってくれない。なんどもなんども商品説明を繰り返して、しつこいほど、めんどくさいほど語りつづける。この「しつこさ」が「ジャパネットたかた」をつくったのではないだろうか。
ものづくりは「めんどくさい」もの。
いいものをつくったが、売れないのはなぜ。どんなにすぐれた技術であっても、「社会に問いかける力」がなければ、社会に受け入れられない、広がらない。いつからかめんどくさいことをしない人が増えた。とにかくスマートに、とにかく楽にできないかと考え、手を抜く。時間をかけることはめんどくさい、そもそも恰好悪い。よって自分都合、自社都合、業界都合に事柄を進めようとするので、「社会に問いかけない」から、社会の姿、形が見えなくなった。お客さま、市場の声が聴こえなくなった。「社会に問いかけない」から受け入れられなくなった。
日本一美味しいフレンチレストランがどこかはネットで調べたらすぐわかるが、そのレストランで料理を食べるのは至難の技。世界一の名医はネットで検索すれば誰かは判るが、その名医に診察してもらうためにはどうしたらいいのかわからない。
これからの社会は「本物・実物・現物へのアクセスと、代替品・バーチャルへのアクセス」の狭間を行ったり来たりすることになる。バーチャルなモノには簡単にアクセスでき、お店に行かなくてもモノが買えるようになった。しかし本物が欲しくなっても、なかなかそこにたどりつけない、触れられないという現象が起こっている。これからの社会・ビジネスにおいて、リアルとバーチャルをどう考え、その間をどうつなぐかが論点のひとつとなる。
架空・バーチャルへのアクセシビリティが高まるのは時代の流れ。だからこそ本物が求められ、本物にアクセスしたいというニーズは高まる。よってビジネスとしては、本物のレベルをあげつづけないといけない。本物を見たい、触れたい、手に入れたい、食べてみたい、そこで経験したいという想いは募る。だから本物は本物でありつづけないといけない。偽物は本物をしのぐことはできない。偽物に飽き、偽物では満たされない、達成できないと…人々の想いは本物に近づいていく。AI議論はこの文脈。
本物志向ということよりも、本物そのものへのアクセスがこれからの時代の鍵となる。バーチャル・代替品にはいつでもどこからでもアクセスできる。しかし本物にはその現場に行かなければアクセスできない、その人のスケジュールをおさえないと、本物にはアクセスできない。
社会に問いかけるチカラが弱くなった。
最近、社会に問いかけるといっても、「こういうモノ・コトがあったらいいよね」ということが多い。空調の効いた快適なオフィスでパワーポイントでキレイな絵をかき、横文字いっぱいの自分の世界にひたった語り・プレゼンが多い。しかし、それでは聴いている人の心にはなにも響かない、物事は進まない。現場に行って、お客さまたちと語り、何度も何度も行ったり来たり試行錯誤して、モノ・コトのプロトタイプをつくって、「これ、どうですか?」と社会に問いかけつづけなければ、物事は動かない、物は売れない。しかし大半の人はそうしない、めんどくさいから。
モノづくりとは市場・お客さまがそれを使って喜んでいる姿を思い浮かべて、それを自らプロトタイプをつくって、いろいろな場所に持ち込み、“こんなものをつくりました。どうですか”とお客さまの反応・お客さまの声を集めて、つくりなおして、また持ち込む ―― そしてやっと売れるというプロセスなのだ。プロトタイプをつくるためには、めんどくさいほどの時間とお金が必要で、リスクをとらねばならない。そんなことは、めんどくさい、もっと楽に売れるはずと、プロトタイプを造らず、リスクも取らず、覚悟もせず、 “お金を出してくれたらつくります、うまくいきます”や“こうしてくれたら、やります”という人や会社が多い。それでは、なにも進まない。社会には一休さんの「屏風の虎」が多い。
足利義満 「この屏風の虎を見事につかまえてみせよ」
一休 「かしこまりました。では屏風から虎を出してください」
義満 「…。」
一休は足利義満に、「虎を屏風から出してくれたら、虎をしばります」といった。義満からすると、「一休に、虎を捕まえよということは、虎を屏風から出すのも一休だ」と思っていた。最近、「一休の屏風」のようなことが多い。
「あなたがこれをしてくれたら、できたのに」が多い。「こうだったら、こうなる」という他人任せが多い。「あぁ、親父がイケメン俳優だったら、俺もイケメンだったのに…」 ― このような類の話が多すぎる。
技術と社会との関係も同じ。
技術と社会がつながっていないことが多い。社会のことを考えずに、「技術」だけで一人歩きしようとしている。技術でなにができるかには関心があるが、技術によって、生活・産業・ビジネス・都市がどうなるのかには関心がない。たとえばペットボトルを見て、ペットボトルのなかの「技術」を感じたり考えたりする人は少ない。ペットボトルがどのようにしてできあがっているのかのイメージが湧かない。 ダイナミックに進化しつづける技術と人口動態が大きく変わる社会をつなぎなおすことが論点ではあるが、これからむしろ技術と社会はもっと乖離していく。めんどくさい、うるさい、技術は技術屋にまかせておいたらいい、企業は企画、営業は営業、ペットボトルは飲めりゃいいと。
モノやコトがどのようにしてつくられているのかは興味がない。できあがったものがよければそれでいい。モノやコトづくりのプロセスがブラックボックスになっていても関心がない。それでは絶対に物事は進化しない、イノベーションは、技術革新はおこらない。
技術とはテクノロジー、ギリシャ語の「技の学び」が語源である。翻して他人にはできない技、容易には真似できない技を意味する。ノーベル賞みたいに素晴らしいことを発見することだけが技術ではなく、技術の本質は「他人にできない技」のこと。とするならば、ダイコンの皮をむくことも技術である。現場で機械を操作していて、これ以上温度をあげると壊れてしまう、ではどうしたらいいのかと知恵を絞り創意工夫して仕上げることも技術。
モノづくりには「想像力×創造力」が求められる。
できあがりのゴールイメージを想像するだけでなく、プロセス・過程を想像する力と全体の流れを理解する力がなければ、新たなモノやコトはうまれない。そこにはめんどくさいほどの集中力が求められる。
めんどくさい日本だから、すごいモノづくりをしてきたのだ。