安西洋之(ビジネス+文化のデザイナー)
「ロレックスマラソン」が語るのは何か?ー「痩せた現実」が招いたもの
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「ロレックスマラソン」が語るのは何か?ー「痩せた現実」が招いたもの

安西洋之(ビジネス+文化のデザイナー)

鍜治美佑さんという25歳の日経新聞記者の連載記事が気になります。謎の多いラグジュアリー市場に、(良い意味で)素手で乗り込んでいる感じがするのです。だから本稿は、この記者1人に向かっているつもりでつらつら感想を書くことにします。

記事はスイスの高級時計、ロレックスについて書かれたものです。正規品を買うために店に何十回、何百回通い詰めても「在庫はございません」と断れ続け、なかなか買えないとの実態を追っています。ロレックスマラソンとも言うようです。このような人が2-300人は毎日ロレックスの店を訪ね歩いている。若い記者本人もその1人となり、クレジットカードの利用限度額をあげたと書いています。

そのため転売市場も過熱気味どころじゃない勢いです。下図は上記連載の2回目にあるものです。6年ほど前から実勢価格が高騰しています。

図表(ロレックス狙う「転売ヤー」 2週間で80万円高騰)
日経新聞電子版2022年1月9日の「ロレックス狙う「転売ヤー」 2週間で80万円高騰」より

ロレックスより上をいく高額の時計もありますが、ロレックスが「手頃に高価」なのが人気の理由のようです。この現象にぼくが興味をもつのは、ラグジュアリー商品の「脱コンテクスト化」が投資に向かう歪な例だと思うからです。

「ラグジュアリーの大衆化」が生んだもの

ラグジュアリーとは何らかの客観的な数値や定義で線引きされるものではありません。いくら以上の価格をラグジュアリー商品と呼ぶ、というものでもない。職人が丁寧に作った高品質の時計がラグジュアリーと呼ばれるかどうかは、あくまでもそれを利用する人の扱い方や、あるいはユーザーの振る舞いも含むコンテクストとの関係で、第三者がどう見るかで決まってきます。高額な時計=ラグジュアリーな時計ではありません。

しかしながら、ある特定の分野のある特定のブランド商品を、ラグジュアリーと呼ぶビジネスモデルが前世紀後半から登場しました。括弧つきラグジュアリーブランドの登場です。フランスの高級ブランドのコングロマリットが代表格で、スイスの高額時計もこの範疇に入ります。そして、これらは欧州発でありながら欧州の外に大きな新市場があるのが特徴です。日本、米国、中東、ロシアときて、殊に今世紀に入ると中国です。

当初、欧州文化への憧れやプレスティージの利用との側面がこれらの新市場のコンテクストにあり、欧州文化のコンテクストと利用コンテクストの乖離が、ある種の人たちにとっては気に入らなかった(ex.「なんで、庶民のあんな若い子が持っているのだ?」)。だが、それは「ラグジュアリーの民主化」との表現で受け入れることが良しとされます(ex.「エリート文化の時代は終わったのだ」)。

ただ、ご想像のように「ラグジュアリーの民主化」はまやかしです。実態は「ラグジュアリーの大衆化」です。民主化が含む社会を再起動させる作用はなく、ただ漫然と社会への普及が広がるだけの大衆化です。お金を出せば何でも手に入る。それを邪魔するものはない、ということです。即ち、ここにおいて、ラグジュアリーの脱コンテクスト化が推進されたわけです。

「ストーリーテリング」の需要は脱コンテクストの補完である

高額、高品質、ハイスペック。これらの要素を満たせば、あたかも即ラグジュアリー商品であるかのような認知が市場で進みます。まるでラグジュアリー証明書なるものが発行され、モノそれ自体が独立して存在し、そのモノがコンテクストから遊離して大量工業製品のような評価が独り歩きする。モノと文化の調和でラグジュアリーが成立していたのを、(前世紀後半以降のビジネスモデルで)モノだけ先行させてしまったことのツケが、ロレックスマラソンとの形に出ているのではないかと思いました。

いや、こう言い切る前に一つ見逃せないプロセスがあります。ストーリーテリングです。特に、ラグジュアリー分野では、脱コンテクストにより宙に浮いたモノを支えるものとして、ストーリー需要が増したとも解釈できます。

ラグジュアリー分野に限らず全般に、「モノだけではない。ストーリーこそが人を惹きつける」と盛んに言われた時期があります。もちろん、今でもそう言われ、その重要性は顕在です。ただ、「モノではなく、ストーリーこそ」とモノを軽い位置におき、ストーリーを盛る「微調整」が強かった。その裏には「もう、いいモノなんて誰でも何処でも機械さえあれば作れるのだから、そこで差別化は図れないのだ」との錯覚に基づいた焦りがあったのでしょう。

その結果、「らしい」ストーリーが世の中には溢れかえります。そうなればなるほど、逆に「ストーリーではなくモノだ!」との反発の声も強くなり、ストーリーとモノが両者で対立するような構図を作ってしまいます。本来、ラグジュアリーはモノとコンテクストの重なり合いで人々から認知されるわけですが、ストーリー偏重のトレンドが「高品質・高価格・ハイスペック」の脆弱性を補完したのは間違えありません。脱コンテクストで貧相になったコンテンツを埋める役割を負ったわけです。

「ストーリー」は扱い方をカバーできない

ストーリーはコンテクストのある部分、時間を軸に切り取ったものでしょう。言ってみれば、「痩せた」コンテクストです。リアルには豊富な内容があるにもかかわらず、どこかを切り取る。

もちろん切り取るのは戦略的に大いに結構なのですが、豊穣な要素、つまりはモノの置き方、扱い方、その振る舞いが醸し出す雰囲気に至るまでの要素がすべて置き去られます。あるいは扱う人の人格という魅力も、当然、視野外です。ストーリーにはもっと多くのことがあると思い違いをしてしまった誤算が、ここで露呈するのです。

我々は一つの風景からいろいろなものを切り捨て、または「見ないことにする」。繰り返しますが、こうして「痩せた現実」と向き合うのに慣れてきました。「痩せた」ことにあまり意識しないようにしながら、です。

方便としては合理性のためであり、効率のためです(実際には「分かりにくいところは見ない」)。

「痩せた現実」が投資対象になる


その合理性が突き進むと、転売ヤーになります。「痩せた現実」だからこそ成立するモデルです。高級時計が投資の対象になっているのは、次の記事にもあるように、中国でも同様です。海外逃避しやすい資産として時計が対象になっています。

分野の異なる、このおよそ20年のアート市場をみても分かるように、アート、殊にコンテンポラリーアートの作品も投資対象として熱を帯びてきました。年間およそ7兆円の世界市場において、取引金額の大きなシェアを(再販である)セカンダリーのオークションが占め、その多くの作品がコンテンポラリーアートになっています。

印象派やオールドマスターなどの作品が公的美術館などに収蔵され、市場に出る作品がコンテンポラリーアートに集中せざるをえないとの事情も絡みます。そして、この市場でも中国市場が上位に躍り出ています。

そこでアートの世界があまりに市場の投資ロジックに振り回され過ぎたことに対する、アート世界自体の復活の動きもあるようですが、「痩せた現実」を再起動させて豊かな風景に作り変えるには、それなりの年月が必要でしょう。

あえて投資となるなら「豊かな現実(コンテクスト)」に向かって欲しい


ロレックスマラソンや転売ヤ―にある異常性もさることながら、「豊かな現実」を取り戻そうとする動き、または意思がどこにも書かれていなかった。それが、連載『ロレックスに走る人々』の記事が哀しさを呼ぶのだと思います。

ロレックスの評価は、良いものを長く持ちたいとの習慣の表れとの積極的な見方もあります。しかしながら、それは「結局、投資の対象になるからでしょう?」とのセリフにかき消されてしまっているのです。

買うまでに多大な時間と労力を注ぎ、身分証明書を提示し購入、かつ転売禁止条項に合意をしないといけない・・・転売ヤーと一線をひいた存在であるとの自己アイデンティティが精神的満足感を満たすのでしょうか。もし上質のものを長く持ちたいのなら、別のもので実践すれば十分です。

また、セカンドハンド市場がサステナビリティの観点から注目を浴びています。ハイエンド企業が自らのセカンドハンド商品を扱うオンラインサイトをもつのも、サステナビリティや偽物対策など複数の側面があります。いずれせによ、こうしたセカンドハンド市場の肯定が転売ヤーの肯定にはつながりそうもありません。

ある人は「このロレックスマラソン、ゲームみたいなものですよ」と笑顔で語るかもしれません。しかし、その笑顔が「痩せた現実」の一部を構成しているとは、ご本人、気づいていないでしょうね。

もっと「豊かな現実」の再構成にエネルギーを使いましょうよ。

写真©Ken Anzai

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安西洋之(ビジネス+文化のデザイナー)
モバイルクルーズ株式会社/De-Tales ltd. ミラノ/東京。最新著書『新・ラグジュアリー 文化が生み出す経済 10の講義』(共著)『「メイド・イン・イタリー」はなぜ強いのか?』、監修にロベルト・ベルガンティ『突破するデザイン』。訳にエツィオ・マンズィーニの本『日々の政治』