一度、ダボスに行ってみた
1月21-24日のダボス会議が開催中だ。今年は50周年のため、現地は一層の盛り上がりを見せているだろう。
一方で、普通に働く日本人にとって、ダボスは物理的にも心理的にも遠い。ほぼ「無関心」から、「一体、意味あるの?」という懐疑までが、おおよその反応ではないか?
実際、ダボス会議は、トップ政治家や大企業経営者がお互いを祝福しあうイベントと冷めた見方をされることもある。特に昨今、格差の広がりが問題視され、環境問題などについて政治とビジネスの責任が厳しく問われている。伝統あるダボスだが、向けられる視線は、日本に限らず、必ずしも肯定的なものばかりとは言えないかも知れない。
しかし、たまたま3年前に参加した経験から、「それでもダボスには意義がある」と言いたい。
まず、分断が進む社会において、ダボスはひとをつなげる貴重な場だ。もちろん、分断は所得や政治信条や人種などの断面で起こっており、ダボスに来るのは、そもそも「超」がつくエリートだけでしょ、という意見もごもっとも。
だが、世界で意思決定力を持つひとたちが、国境を越えて、スイスの人里離れた寒村で缶詰になるということは、アナログなつながりの意味があると思う。サミットほど政治的ではなく、いわば企業の「オフサイト研修」を大きくしたような雰囲気だ。
ダボスはマイナス15度が普通で、みな、外では雪だるまのように着込んで歩く。ゆえに、一旦建物の中に入ると、コートを預け、必ずブーツからパンプスや革靴に履き替える面倒な工程がある。ベンチで隣り合わせた人とは自然と仲間意識が芽生える。もちろん、これだけで世界平和が訪れるわけではないが、XXファーストの対極にある国際協調に少しは寄与しそうだ。
また、ダボスで提供されるプログラムは、非常に幅広い。大統領の演説のような報道されやすい目玉は実は少数で、裾野は哲学だったり、「難民の一日を体験しよう」だったり、興味にあわせて自分なりのプログラムを組むことができる。もちろん、そこで出会う人脈は同じテーマに興味を持つ、意気投合しやすい相手となる。
実際、このプログラム内容を斜めに見るだけで、何が世界で話題かが分かる。例えば、3年前に既に製造の消費地回帰が議論されていた。重厚長大産業のグローバル大手CEOが、サプライチェーンが短くなることは環境へ好影響があり、ぜひ進めたいと堂々と発表していたことが印象深い。
おそらく、お互いこんな不便なところまでよく来たよね・・・という共感を背景に、パネリストやスピーカーの「本音」が出やすいのもダボスの特徴だ。政治家のフォーマルなスピーチは準備されたものだが、一方で、アドリブが出るパネルなどは、聴きごたえがあった。
半面、残念だったのは日本のプレゼンスが非常に低いことだ。物理的距離は変えられなくとも、心理的距離はもう少し近くて良いと思う。
まず、政治なりビジネスなりで、日本の立場を主張する良い機会と捉えることが大切だ。ダボスで発信すれば、国際的な世論を動かす梃になり、日本に共感する層を増やすことができる。ただでさえ、とにかく特殊と思われがちな日本の事情を説明し、情報戦に勝つことがますます重要なことは明らかだ。
日本人はシャイで、知らない人だらけの場で、しかも英語で社交するのが苦手という側面があるかもしれない。しかし、これはある程度克服しなければ、結局、日本という市場だけで思考が閉じる井の中の蛙になりかねない。
実は、毎晩続くダボスの社交イベントで一番人気があるのは、日本政府などが主催するJapan Nightと言われる。日本酒が振舞われ、お寿司には長蛇の列ができていた。列に並んでふと振り返れば、有名ビジネススクールの学長が、お皿を手に、辛抱強く待っていたので、驚いた。
日本のソフトパワーを感じた場面だったが、会議で発言が目立つ日本人は少ない。
これからのダボスは、時代に即して変容していくだろう。それでも、ひとが集う場所という普遍的な価値は変わらない。その中で存在感を示せる日本でありたい。
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