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「デザインの態度を学ぶ」とはどういうことか ー仲間になり、悩みに触れ、語ること

最近、仕事でご縁をいただいて「デザイン教育」に関連するリサーチをしている。

「どうすればデザインを教えることができるのか」「子どもや若者、社会人がデザインを学ぶために最適な教材は何か」といった問いをめぐってあれこれ調べながらも、そこには「デザインとは何か」という沼のような問いがある。

今日は、デザインの重要な要素として語られる「デザイン態度」を軸に、『コ・デザイン』『わざ言語』という2冊の本を参照しながら、「物事に対する心的態度を学ぶ場のあり方」を考えてみたい。

デザインとは、問題解決し、意味を与えるもの。

上平崇仁著『コ・デザイン デザインすることをみんなの手に』では、デザイン研究者の言葉を引きながら、デザインとは「問題解決」および「意味を与えること」であるとしている。デザインは見た目をいい感じにスタイリングするツールではない。ものごとをより良くしたり、新しいまなざしで捉えることを可能にする営みだ。

さらに上平さんは「誰がデザインを行うのか」という問いに対して、❶デザインの専門家がユーザーを中心に据えて行うもの、❷専門家と当事者が共に行うもの、❸当事者自身がデザインを行うものの3つに分類をしている。

つい先日、3歳の息子が「お化粧のおもちゃが欲しい!」とごねていた。そのとき、5歳の娘が折り紙とペンをつかって、複数色塗り分けるアイシャドウのパレットを作り出して、2人で楽しそうにお化粧ごっこをはじめた。息子のニーズにたいして、折り紙に「アイシャドウのパレット」という意味を与え、問題を解決したデザインの営みだった。

子どもの頃から備わっている「つくりたい」という欲求、「つくることで状況がよりよく変わる」という希望を行動に移すとき、そこにデザインの萌芽がある。

デザイン活動に通底する「態度」とは?

上平さんはさらに、主体が誰であれデザインの活動に通底する「態度」の重要性を指摘している。それは『Design Attitude』のなかでミヒレウスキーがデザイナーの調査を通じて挙げた「5つの特徴」として示されている。

詳細はこちらの記事にも紹介されている。

ここで重要なのは、デザインとは「態度」であるということだ。

「問題解決」や「意味を与えること」を為すためにさまざまなテクニックを用いることはできるが、そこに❶〜❺のような態度があるかで、モノゴトの良し悪しは変わっていく。

それは、この真逆の態度を考えれば容易に想像がつく。

このような態度で作られたものは、誰かを幸せにするだろうか。とにかく使い勝手が悪いモノがうまれそうだ。

態度を育てる教育とは何か?

この「態度」という視点に立った時、「デザイン教育において、態度を学ぶとはいかにして可能なのか?」という問いが立つ。「あるモノゴトに対する態度を学ぶ」とはどのような場で可能なのだろうか。

ぼくは中学生のころ、美術の時間が好きだったが成績が5段階中2だった。「なんで2なんですか?」と先生に聞くと「授業態度が悪いからだ」と言われた。腹が立ったぼくは、美術の時間は決してしゃべらず、黙々と作品をつくるようにした。

態度は目に見えて変わったのだろう、成績は4になった。だが、友達としゃべりながら手を動かすのが好きだったので、美術に向かう心は退屈し、遊び心や五感を駆使するような気持ちは無くなった。

さきに書いたデザインにおける「態度」は、「授業態度」のような表層的なものではない。外から観察可能な表層的態度だけでなく、当人の心持ち、すなわち心的態度を含むものだ。

余談だが、コンセプトとは、conceive(心に抱く)の名詞形らしい。態度とは、まさにコンセプトを体現すること、つまり、心に抱いているものとそれが現れる状態のことを指す。

熟達者の葛藤が誘う、心的態度の世界

このとき生田久美子・北村勝朗編著『わざ言語 感覚の共有を通しての学びへ』が参考になる。

ここでは「わざ」を「タスク」と「達成状態(アチーブメント)」に分けている。タスクとは、外から観察可能な「行動」であり、達成状態とは、物事に向かう心持ちや価値観、心的態度が含まれている。

そんな「わざ」を他人につたえていくときに用いられるのが「わざ言語」だ。例えば、「舞い降りる雪を受け止めるように踊る」とか「ヘソが勝手に前に動くように走る」といった感覚的・詩的・比喩的な表現をふくむ言語を指す。単に走る、踊るという「タスク」だけでなく、それがどのような心的態度で行われるものなのかを表現するために、感覚的な言語になっていく。

この「わざ」における「タスク」と「達成状態(心的態度)」に人を誘うためには、実践の場に「参加」して、「仲間」になることが重要だ。

『わざ言語』の第6章『看護領域における「わざ言語」が機能する「感覚の共有」の実際』で描かれている。論文で紹介されている実例は以下のようなプロセスで起こっていた。

❶学生が、末期がん患者のケアの場に参加するかたちで看護実習が行われていた。

看護実習と言われて一般的にイメージする実習だ。学生も看護師となって、看護の一部を実際に担う。ここで、学生は「看護師になってみる」という模倣的な学習をしている。

単に看護師や動きや歩きという「形」を真似ることではなく、看護師がやっていることの「意図」を推察し、その意図を取り組んでいこうということが看護師の思い、考えに共感することとなったと考えられる。

 『わざ言語』 p.176

実習は、表層の模倣だけでなく、その深層にある意図や思い、美学や善といった「心的態度」を汲み取りながら行われる。

❷その実習の経験を振り返る「臨床実習カンファレンス」の中で、看護師が悩みを吐露した。

終末期緩和ケアに移行することに決めたが、家族からはまだ回復の兆しがあると言われ、希望を持つか、積極的治療を諦めるかのジレンマが辛いという悩みだった。

ここで、学生たちは、この看護師の臨床の場に居合わせていたからこそ、看護師が患者や家族のことを深く考えながら、悩みながら実践していることが身に沁みていく。同時に、熟達した看護師であっても、いろいろな思いや悩みを持ちながら解決しようとしていることに共感が芽生えていく。

❸その悩みを聞いた学生たちが意見を交わし、態度を表現した。

熟達看護師が悩みを吐露した後で、学生同士が対話するなかで共感が分かち合われ、「看護は悩まないと進まない」「悩むことが看護の第一歩だ」という心的態度が表明されていった。

こうして、 「実践の場」と、「熟達した看護師が悩みを吐露した場」と、「学生同士でその悩みを巡って対話する場」の3つの場に参加したことで、態度の学びにつながった。

学生が看護の実践に参加し、仲間になっていたこと。看護師の表層的な行動だけでなく「心的態度」を汲み取ろうとするなかで、熟達看護師の悩みに触れ、自らの「心的態度」ができあがっていった。

熟達者の葛藤がある種の「わざ言語」として機能し、「わざ(行動と心的態度)」の継承がなされていったのだ。

デザインの態度を学ぶ場とは?

ここまで描いてきた「看護」における事例を「デザイン」に置き換えてみたい。

❶参加し、仲間になること。❷そのうえで熟達者の行動を模倣し、心的態度を汲み取ろうとすること。❸そして、熟達者の葛藤に触れ、心的態度を自分の心に抱くこと。この3つの段階を経て、態度は学習されていく。

そうだとすれば、デザインではどのような態度の学びが可能なのだろうか?

❶デザイナーの仲間になり、デザインに参加する

まず初めに、デザイナーの仲間になり、デザインという営みに参加している状態をつくる。

看護もまた専門職でありながら、私たち一人ひとりが子どものころから誰かをケアすることを経験している。転んで怪我をした友達を見れば、先生に伝えて手当を頼んだ。これも一つの看護のはじまりだ。

デザインも同様に、子どもの頃からの小さな経験を積み重ねているはずだ。このようにして過去の経験を見直しながら、「私たちはデザインをできるし、してきたし、今もしているし、これからもしていこうとしている」という自覚の形成からはじめてもよいかもしれない。何らかの仕方で、デザイナーの仲間になり、デザインという営みに参加している状態をつくる。

❸デザイナーの心的態度を汲み取る

そのうえで、デザインとはどのような態度をもってなされるものなのか、その「心的態度」を汲み取るきっかけをつくる。熟達したデザイナーの身振りを見ることができれば一番よいだろう。

それができなければ、デザイナーのドキュメンタリーを見たり、展覧会を通じて態度を感じ取る時間があってもよいかもしれない。

あるいは、ブルーノムナーリが作り出したおもちゃのように、遊んでいるうちにデザインの態度が染み込んでくるような、思想が込められたおもちゃで遊ぶこともその一つかもしれない。

❸実践と省察を通じて、自らの「心的態度」を形成する

その後、自らの実践や悩みの分かち合いを通じて、自らの「デザインにおける心的態度」を形成していく。

デザインにせよ、看護にせよ、「態度」を学習する場をつくるためには、この3つのステップを、熟達者と初学者が一つの共同体となってつくりだしていく必要がある。授業態度のような表層的な態度ではなく、モノを生み、人をケアする人の心的態度を模倣し、汲み取り、自身のそれを形成する場とはどのようなものか。引き続き考えていきたい。



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臼井 隆志|Art Educator
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