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プロセスエコノミー時代だからこそ意識したい3つの「間」について考えた

お疲れさまです。uni'que若宮です。

子どもたちの夏休みやら副反応やらでバタバタしており遅くなりましたが、やっと話題のベストセラー・尾原和啓さんの『プロセスエコノミー』を拝読しました。

「プロセスエコノミー」とは、製品や作品そのもの(これを重視するのが「アウトプットエコノミー」)だけではなく、それをつくる「プロセス」にも価値が出てくる、という考え方もしくは経済的なトレンドのことです。こちらの記事にもありますが、

もともとはけんすうさんの昨年末のこちらの記事

がきっかけで広まった考え方です。(このnoteめっちゃわかりやすいのでぜひ)


AKB48やNiziUのようにタレントやスターが生まれていく過程をエンタメ化したり、「ストーリー消費」といわれるように、モノ自体ではなく制作段階のストーリーをオープンにすることで共感度を高めたり、あるいはオンラインサロンのように企画自体を参加者と一緒につくっていったり、現代では「アウトプット」のみならず「プロセス」自体に価値が生まれてきている、ということ。

「エコノミー」という言葉がついていますし、制作段階の「プロセス」にも課金できる、というところから雑に「楽して儲かる」ようなイメージも持たれがちありますが、いいことづくめなわけではありません。名付け親のけんすうさんもこのように言っています。

クリエイターはむしろ「大変になっている」

これまで「作品(アウトプット)」のみで勝負してきたクリエイターも、制作に没頭していればよい時代は終わり、「プロセス」も見せる努力をしなければならない。結果だけでなくプロセスも評価してもらえる、というのは良い面もありますが、逆に途中経過を見せなければならない、というのは辛いところもありますよね。(テスト結果以外に日常態度が評価される学校の「内申点」の息苦しさに似ているかもしれません)

プロセスを見せていく努力の大変さ以外にもプロセスエコノミーの落とし穴はあります。尾原さんは書籍『プロセスエコノミー』でも、わざわざ一章をまるまる割いてその「弊害」について述べています。ざっくりまとめると以下の3点でしょうか。

・プロセスで稼げることで本来の目的を見失ってしまう
・ファンに囲まれたフィルターバブルの中で勘違いする
・自分を見失い、無茶・無謀に走ってしまう


上にあげたようなプロセスエコノミーのつらさや弊害を考えるうち、「間」がなくなることが問題な気がしてきました。そこで今日は「間」という観点からプロセスエコノミー時代に注意すべきことについて考えてみたいと思います。


①時間的な「間」

従来の経済活動では顧客との関係は「点の関係」でした。お店で商品を買う時や納品する瞬間が勝負だったのです。少し乱暴にいえば、成果物がきちんとしたものであればそこに至る「プロセス」はあまり問題ではなかった。

しかし、モノが溢れて選ぶのが困難になってくると、買い手も「買う瞬間」に全てを賭けるのは難しくなります。数回会っただけで結婚を決めるかつての「お見合い」が廃れ、婚前に付き合ったり同棲したりするのが珍しくなくなったように「点」から「線」の関係へとシフトしてきました。数年前から「サブスク」が流行しているのもこうしたトレンドと軌を一にしていますが、提供者と顧客との関係は「売り買い」だけではなく、「継続的関係」になってきたのです。


もちろん「点」の関係とはいっても、以前から顧客との継続的関係は存在しました。「売って終わり」とはいっても顧客の期待値に合わなければ次は買ってもらえませんから、感想やレビューのような形で顧客や市場との対話が生じます。製品だけではなくアート作品でさえ「つくって終わり」ではなく、作品を出したあとでアート・ワールドやアート・マーケットから値付けや批評という形でフィードバックを受けます。とはいえ完成の「前」すなわち制作段階のことはあまりオープンにされず、対外的にはある程度ブラックボックス化していました。(その究極の形が「秘伝」というやつです)

プロセス・エコノミーではこのフィードバックが事後だけではなく、制作段階にも染み出してきます。制作段階を露出させる、という意味では工場見学とかオープンキッチンとかワーク・イン・プログレスみたいなものもありましたが、これらが基本的にはプロセスを「見せる」だけなのとも違い、プロセスエコノミーでは制作段階から受け手とのインタラクションがあり、その時点でフィードバックがされるのです。

プロセスエコノミーに限らず、正確にいえばアウトプットエコノミーであっても顧客からのフィードバックが制作段階に影響します。たとえばある製品や作品を出したあと顧客からのフィードバックがあれば、作り手はそれを次の製品や作品に生かします。そう考えると時「後」のフィードバックは、次の作品の「前」段階であるとも言えるわけです。

しかしアウトプットエコノミーでは、フィードバックが制作に影響するまでには一定のタイムラグ(間)がありました。アウトプットエコノミーではつくり手と顧客の関係は「間欠的」だったのです。これに対し、プロセスエコノミーではこの「前後」のフィードバックがくっついてしまい「間」がなくなります。そして制作段階でもタイムラグなく即時にフィードバックがされ、常時接続のような状態になりがちです。


②つくり手と受け手の「間」

このように常時接続されると、つくり手と顧客の「間」がなくなってきます。

「間欠的」なフィードバック関係では、つくり手と顧客のコミュニケーションは「間接的」です。なぜなら「アウトプット」がその媒体となり、両者はテニスのように直接ラリーするのではなく、スカッシュのようにワンクッション挟むコミュニケーションであり、故にタイムラグもあるからです。

もちろん顧客がつくり手に要望をいうこともできますが、基本的にそれはアウトプットに対する要望であり、それを受け入れるかどうかはつくり手に一定委ねられます。あるいはつくり手が「こういう風に受け取って欲しい」と思ったとしても、それをどう受け取るかは受け手に委ねられています。両者の「間」のおかげで、つくり手と受け手は「ぶつかる」ことなくそれぞれ一定の自由度をもちながら関係できるわけです。

しかし、プロセスエコノミーではつくり手と鑑賞者のつながりはより「直接的」になります。作品がない段階から、作品抜きにコミュニケーションすることが可能だからです。

一見、直接ラリーできる方が両者の意思が疎通しやすく、協働が進みやすいようにも思えます。しかし実は「直接結合」の場合の方が、一方が他方を引っ張るような一方的・強制的関係になりがちで、よい「協働」にならないことがあります。どういうことでしょうか?


伊藤亜紗さんの『手の倫理』に「ブラインド(視覚障害者の)ランナーとの伴走」という話があります。視覚障害のランナーは前が見えないのでひとりでは全力疾走できません。そこで伴走者が隣で伴走するのですが、その時、手をつないだり伴走者が直接ランナーの腕や肩を持ったりするのではなく「伴走ロープ」と呼ばれる一本のロープをお互いに握って走るのです。

そしてこの時、ロープに「あそび」があることがとても重要だといいます。

あらためて実感するのは、ロープの力です。もし、二人のランナーがじかに手をつないで走るとしたら、どうでしょうか。おそらく、目の見える伴走者が目の見えないランナーをぐいぐい引っ張って連れて行くような走り方になってしまうはずすです。うまく走れたとしても、そこにあるのは相手の体も進具のように扱う一方的な「伝達」のコミュニケーションであって、決して「楽しい、こころが躍る感じ」ではないはずです。共鳴は生まれようもありません。
ロー ブなら、「あそび」ができる。がちがちに固定されていないつながり方だからこそ、多少動きがずれたとしても、ロープがそのずれを吸収してくれます。走っている側も、ずれたことを感じ取って調整する余裕ができます。柔らかいロープだからこそ、バッファとしての機能を持つことができるのです。実際、特に初心者の場合には、ロープを持つときにはピンと張るように持つのではなく、多少たわむようにして持つのが通例です。ロープを持つ手も、人によってはかなり力を抜いてしまう。
重要なのは、このあそびがあるからこそ、ずれを通してお互いの状態を感じ取り合うことができる、ということです。つまり「生成的」なコミュニケーションができる。ゆるいロープによってつながりを間接化することで、二つの体の動きが衝突することなく、混じり合うことができる。(伊藤亜紗『手の倫理』強調は引用者)


つくり手と受け手は「伴走」のような相補的関係にあります。しかしこの時「直接」繋がりすぎてしまうと、どちらかが「引っ張る」「一方的な」関係になってしまう。

つまりつくり手が強者となり受け手を従えることになるか(この場合フィルターバブルができ、適切なフィードバックを得られずつくり手が「裸の王様」化します)、あるいは逆に受け手の反応を気にしすぎ、つくり手が自分を見失うか(この場合はつくり手は「大衆の奴隷」となります)。(どちらもYouTuberとかで割とみる事例です…)

本来、つくり手と受け手には双方向的な関係があり、だからこそ共鳴が生まれます。しかしそうあるためには、両者の間には実は「間」や「あそび」が必要なのです。


③作者と作品の「間」

つくり手と受け手における「ロープ」は「作品」です。つくり手は作品を通じてメッセージを発し、受け手は作品に対して応答を返します。作品が緩衝地帯となり、双方の想いを吸収できる「余白」や「あそび」となることで、作品は「多義性」をもつことができました。

この時、「作り手」と「作品」とは「別の存在」である、というのが重要です。

とりわけアートにおいて、作品は(物理的に作家がつくったものであれ)作者の意図をも超えたものです。作家はしばしば「作品ができて初めて自分がつくりたいものがわかった」といいますが、作品は制作の過程で、手と材料との葛藤の中で、そして時代の空気や制約などさまざまな要素と化学反応の末に、産み落とされるのです。その意味で作品はつくり手にとっても「アンコントローラブル」な存在であり、「つくり手」と「作品」の間にも「間」があり、そこにある種の神秘性があります。

しかし、プロセスエコノミーにおいてはつくり手がまさに作品をつくっている「制作」の場面に立ち会うことにより、つくり手と作品が同時に存在・生成するため、受け手にはほとんど一体のものとして思われてきます。これによりつくり手と作品とを分けて考えることができなくなり、「間」がなくなるのです。

あるいは別の言い方をすれば、アウトプットエコノミーとプロセスエコノミーでつくり手と作品の前景・後景が逆転すると言ってもいいかもしれません。アウトプットエコノミーでは先程述べたように、受け手が対峙するのはまず「作品」です。しかし、プロセスエコノミーにおいては、作品よりもつくり手の方が受け手に近くなり、作品はそれを通して垣間見るものになるのです。

このようにしてつくり手と作品の「間」がなくなると、2つの観点で作品に影響が生じます。


ひとつは作品の多義性が失われること。とくにアートでは、一義的ならざる余白にこそ作品の魅力があります。先程のべたように、作品は作者の意図すらを超えたものですから、つくり手の意図を聞いたしても、それが必ずしも作品理解の「正解」というわけではありません。むしろ作品の価値をつくり手が十全に理解していないということすらあります。しかしつくり手と作品に距離がなく同一視されすぎてしまうと、つくり手の解説=作品という認識が勝ち、作品の意味性がfixされてしまうおそれがあります。(作者が目の前で解説しているのにそれ以外の意味を作品に読み込める受け手は稀でしょう)

そしてもうひとつは評価の問題。受け手が作品よりもつくり手に近いことで、作品性そのもの以上に「つくり手が誰か」によって評価が左右されがちになります。さらに(常時接続状態によって)その関心の射程は、クリエイターとしての知名度や実績・スキルだけでなく、「つくり手個人」の「プライベート」にまで及びます。

すると、作品は大したことがなくてもクリエイターに気に入られたいファンがファンアピールのために買うから売れる、ということも起これば、逆に作品が良くてもつくり手に愛想がないから売れない、とかスキャンダルを起こすと作品の評価が下げられる、というような傾向が強まるでしょう。つくり手の個人的な人気勝負で作品の取捨選択されていった時、100年後に残るべき作品は果たして受け継がれていくでしょうか。


そういえば先日、こんなニュースもありました。

プロセスエコノミー時代になり作品とつくり手が同一視される傾向が強まったため、パラリンピックのような一大イベントで批判を避けるための防衛として「作者」や「プロセス」を公表せずブラックボックスにする、という対策が取られたとは皮肉なものです。


「間」がなくなると窮屈になる

3つの「間」がなくなると

①つくり手と受け手が常時接続され、
②つくり手と受け手が直接結合となり、
③つくり手と作品が同一視されるようになる

作品の多義性が減り、作品の評価を歪めてしまうかもしれません。あるいはまた、つくり手と受け手が同化しすぎると共鳴や触発が起こらず、クリエイティビティが減ってしまいかねません。

この弊害を避けるため、「プロセスエコノミー」では適切な「間」を意識することがこれまで以上に重要になってくるのではないでしょうか。

②についてはファンとコミュニケーションをしながらも、お互いの意思を尊重し、スルーするところはスルーする。③に陥らないよう、作品と過度に同一視されないよう、作品のプロセスにブラックボックスを残す。受け手も作品を作品として味わい、適正に評価する。

最も簡単なのは、①の常時接続をやめ、つくり手側が意識的にときどき「間」をつくることかもしれません。接続のないタイムラグがあることで、つくり手と受け手の独立性が担保できますし、「作品」とつくり手の同一視も減るでしょう。

作品づくりには「発酵」のために時間が必要なところがあります。発酵時間を待たずに味見したり、頻繁に取り出したりしていてはよい発酵にはなりません。プロセスエコノミーを取り入れつつ、適度に接続を切って、自分と向き合いつつ発酵するのを待ちましょう。

(けんすうさんの『00:00 Studio』がライブにもかかわらずつくり手の顔を映さず作品メインになっていたり、音声がOFFれたりリクエスト機能があったりするのはこうした「間」のためのサービス設計なのかもしれません。Zoomで顔出しして制作しオーディエンスと音声とやり取りしながらも同様のことができますが、それでは「間」がなさすぎてクリエイターはつらいでしょう)


最後に誤解のように念の為、この記事には「プロセスエコノミー」を否定したり反発する意図はまったくありません。

なぜなら、好むと好まざるに関わらずプロセスエコノミー時代はすでに到来しているからです。そして、プロセスエコノミーによって、アウトプットエコノミーでは生まれなかった/生き残れなかったような新たなクリエイターにとってのチャンスも生まれるはずです。

ゲームのルールが変わることに不安はあるでしょうが、変化をネガティブにみているだけでは何も生まれません。否定するのではなく、むしろ「プロセスエコノミー」とどうしたらうまく付き合っていけるのかというのがこの記事の主旨です。プロセスエコノミーが新たな土壌となり、さらに色々なクリエイターやアートが(「間」を意識することで、疲弊したり、殺されたりせずに)生み育まれていくっことを願っています。

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