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「よそおう」を巡るソーシャリティとアイデンティティの変容 〜ART THINKING WEEK 2022「よそおうのこれから」展プロローグ

お疲れ様です。uni'que若宮です。

今日はちょっと「よそおう」ということについて改めて考えてみたいと思います。


「よそおう」ってどういうこと?

みなさんは「よそおう」ということばを聞いて、どんなことが思い浮かびますか?

goo国語辞書を引くと、

よそお・う〔よそほふ〕【装う/▽粧う】 
[動ワ五(ハ四)]《動詞「よそ(装)う」の未然形に接尾語「」の付いた「よそはふ」の音変化》

身なりや外観を整える。また、美しく飾る。「礼服に身を―・う」「店内を春向きに―・う」
表面や外観を飾って、他のものに見せかける。ふりをする。「平静を―・う」「病人を―・う」
支度をする。準備をする。
「魚餌 (えさ) を鉤 (はり) に―・いつけた時であった」〈露伴・蘆声〉

https://dictionary.goo.ne.jp/word/装う_%28よそおう%29/

とあります。

1 の「身なりや外観を整える。美しく飾る。」という意味が最も一般的なイメージかもしれません。漢字でいうと、「装う」(ファッション)や「粧う」(お化粧)といった表記がこれに当たります。

また、2 の「他のものに見せかける。ふりをする。」という意味ですが、これには「扮装」などで使われる「扮う」という漢字があります。

そして3番目に、「支度する。準備する。」という意味。「ごはんをよそう」とかも同じ語源のようです。


これらをまとめると、「よそおう」ということは基本的には「準備する・支度する」というようなニュアンスと、そしてもう少し言えば「素(そのまま)ではない状態にする」ということがありそうです。

これは裏を返すと、素の状態は「まだ準備OKではない」ということですよね。すっぴんとか裸とかもそうですが、「生まれたまま」だと準備できていない、とされる。「ごはんをよそう」のも、そのままほっといたらだめで、お茶碗の中に準備しないとだめなわけです。理想的な「ありたい」「あるべき」状態に「整える」みたいなかんじ。

もしくは「素を知られたくない」という、主体側の「隠したい意図」がある場合もあるでしょう。「平静をよそおう」とか「犯人は配達員をよそおって」とかいうのは、本心や素性を知られたくない、という主体の意図によります。

この2つは、よりポジティブな自分に変化するものか、自分のネガとしてか、というあり方が少し違いますが、「私的な状態private」=(素、正体)をそのまま見せない、という点は「よそおう」の要件なように思われます。

これらのことから考えると、「よそおう」ということは社会的行為であり、かつそれは(ポジであれネガであれ)アイデンティティに関わる、ということです。


コロナ禍で大きく変わった「よそおう」ことの意味

「社会的行為」であることから当然といえば当然なのですが、コロナ禍で「よそおう」のあり方は大きく変わりました。

2年前にコロナ禍が始まったころ、資生堂の魚谷社長から「#会えない時代になぜ装う」というお題が出ました。ちょうどこの頃、資生堂さんの新規事業のメンターもしていたのもあり、コロナ禍でメイク需要は大打撃、というのも耳にしていていて、こんな記事を書きました。

「会えない時代」には人は「よそおう」必要がないのか?

先程確認したように、「よそおう」という行為は「公(public)」や「社会(social)」に結びついており、「私的な状態private」=(素、正体)をある種覆い隠すものでもありますから、そういう意味では「会えない」「出掛けられない」のなら「よそおう」必要はない、とも言えます。(恋人の頃は相手の前でよそおっていても、結婚して「at home」になるとよそおわなくなります。家が「at home」でなくなってお互い夫婦や家族を「よそおう」ケースもあるかもしれませんが…)

ただし、「社会的」ということについて言えば、「ソーシャル」はすでにリアルに「会う」かどうかだけの問題ではなくなっています。「SNS=ソーシャル・ネットワーク・サービス」というように僕らの「ソーシャル」は少なくとも接触時間の比率ではリアル・オフラインよりすでにバーチャル・オンラインでの方が大きくなっているでしょう。

実際、「よそおう」行為は「よりバーチャル」になっているとも言えます。インスタグラムやSNOWのフィルター加工が当たり前になり、「ソーシャル」な場には「素」とは全然異なる姿でアイデンティティがつくられます。

あるいはVRchatをはじめとするメタバースでは、服やメイクに化粧をするように、アバターやアイテムのお買い物をして「よそおう」ことが当たり前になっています。

「よそおう」ことは「理想」か「義務」か?

こうしたセルフブランディングは、「素な自分」を(隠そうという意図ではないにしても)「理想の自分」「ありたい自分」に変える力をもちます。

ただし、「理想」を「よそおう」のは本当に自発的欲求なのか、というと実はなかなか微妙なようです。

自虐にも思えるような「理想」との落差のある「素」の暴露は、「よそおい疲れ」や理想を「よそおう」ことへのアンチテーゼのようにも思えます。(これを投稿していることがまた、ある種のセルフブランディング的なよそおいでもあるのですが)


先程リンクを張った『ニューノーマルの「化粧」はどこへゆくのか #会えない時代になぜ装う』という過去記事の中では、カネボウさんの

「生きるために、化粧をする。」

という広告キャンペーンの炎上についても触れました。これが炎上した背景にも「よそおう」ことへの疲れやアンチテーゼというか、

「化粧なんか本当はしなくていいならしたくないんじゃああ!」

という女性の心の叫びがあったということでしょう。#kutoo もそうでしたが、もう少し正確にいえば「化粧しろとか強制されたくないんじゃああ!したい時はするし、したくない時はしたくない!」という意思表示です。

いずれにせよ、一見セルフ・ブランディング的な「よそおう」も自らの意思によるものだけではなく「社会的コード」として暗黙に求められていることもあるということです。

「よそおう」は時に社会的要請として、「あるべき姿」になってしまいます。「身だしなみ」や「校則の服装規定」とかもそうですが、本心はしたくないのに「素」をさらけだせない状態を作り出すのです。


SDGs時代の「よそおう」とは?

「よそおう」が社会的要請であるということは、「よそおう」が社会的な属性である「ジェンダー」と紐付いて語られてきたことからもよくわかります。

「よそおう」には「妝」という表記もあります。ここに「女」が含まれているようにどちらかというとそれは女性性に強く紐付いて来たように思います。

先程の「生きるために、化粧をする。」の炎上も「女性はメイクすべし」というジェンダーバイアスと因習に対して女性がNoを言った、という構図です。「女性だから化粧」するのではなく、自らそれを選ぶ意思の主体でありたい、ということ。

同様に、男性にもメイクする自由は本来あるはずですが、僕が子供の頃はそれはかなり特殊なことでした。デイヴィッド・ボウイや清志郎さんやYMOやジュリーのように、アーティストが「表現」として化粧することはありましたが(それが「アーティストとしての表現」になること自体が因習の存在を示しています)、日常生活においては男性がメイクをするのは「女々しい」とからかわれたりいじめられたり、「笑い」にされるかでした。90年代に入ると「フェミ男」や「ギャル男」などのことばが生まれ、メイクする男性も出てきましたが、こうしたことばが生まれること自体、まだ特殊なケースと捉えられていたことを示します。

ファッションにおける「女の子はピンク、男の子は青」という固定概念は見直され、無印良品がジェンダーレスな服を出したり、女性用のパンツスーツや男性のメイク用品も登場し、「よそおう」はジェンダーやダイバーシティの観点からも見直され、アップデートされていくでしょう。

このことは「よそおうのルッキズム」も変えるでしょうか?

「女性はかわいらしく」「美しく」「いつまでも若く」。「よそおう」ことで美しくあろうとすること時代は悪ではありませんが、「トロフィーワイフ」のように女性を「見た目」だけで選ぶのは一面的に過ぎますし、人生100年時代には現在主流の「アンチ・エイジング」のように若さを「よそおう」だけではなく新しい価値軸が求められてくるはずです。

また、「よそおう」が「素」ではないという意味では、「よそおう」にはある種の不自然な「無駄」や「過剰」もあります。

シーズンごとにラインナップを一新し、セール後に大量廃棄されるファッションのあり方は見直されてきていますし、動物の毛皮をつかうことや環境負荷の高さなど、「よそおう」は人間のエゴへの反省もなされ、「ラグジュアリー」の捉え方も変化しています。


「よそおう」とはそもそもなにか?

以上みてきたように、「よそおう」ということは、この数年の間に大きな転換点を迎えています。そしてこれからの数年でまた大きく変化するでしょう。

とりわけ、メタバースにおいては、人は自分の「素」の身体の制約から離れ、性別や「人間」という種をも超えて「よそおう(扮う)」ことができてしまいます。バーチャルアイテムの服やメイクも現実世界とは全く異なる自由度があり、環境負荷も全くないのでもしかしたらメタバースの「よそおう」の方がSDGS的にはフィットするのかもしれません。

「よそおう」の変化は「ソーシャル」の変化と紐付いています。それはその時代・その場所の社会的な要請によって規定される「あるべき姿」のコードだからです。

一方で、「よそおう」ことによって、人は理想の自分=「ありたい姿」へとセルフ・プロデュースすることもしてきました。

しかしアート思考的にいえば、「あるべき姿」「ありたい姿」というのは本当の自分(のいびつさ)から目をそらすものでもあります。アンチエイジングではなく自分らしさを楽しめるように、より自分らしい「よそおう」がこれから求められてくるかもしれません。


この文章を読んでいるいま、あなたはどんなよそおいをしていますか?


それは「あるべき自分」ですか?「ありたい自分」ですか?

「よそおう」をしなくてよいとしたら、楽ですか?つまらないですか?

あなたにとって「よそおう」とはなんですか?
これからどんなよそおいを求めますか?


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そんなわけで、ドラスティックに変化している「よそおう」をアートの視点から問い直してみよう、という企画展を開催します!メタバースの体験展示もあるので、渋谷で自分ではないものを「よそおう」体験もしていただけます。僕も会場に期間中おりますのでぜひ「よそおうのこれから」について一緒に考えましょう!

ART THINKING WEEK 2022「よそおうのこれから」展

■AKI INOMATA/市原えつこ/ヴィヴィアン佐藤/高嶺格/西尾美也/長谷川愛/伊藤亜紗/澤奈緒/メタバース体験展示
■2022/8/20(SAT)-29(SUN)
■shibuya QWS
コロナ禍、メタバース、ジェンダーやダイバーシティの境目でゆらぎつつある「よそおう(装う/粧う/扮う)」の価値とこれからをアートを通じて問い直します



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