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希望をもてるように現実を解釈する。

現実を主観的に解釈する人を「ご都合主義」とか「客観的に現実を見られない頭の弱い人」と否定的にみる傾向があります。「過去のあの悲惨なケースに比しても」、いかに今が大層悲観的な状況であると論じた方が「ものが分かった人」と見なされる。

しかし、主観的で楽観的であることは「お気楽」ではなく、希望をもつための意思であるとおさえた方が理にも適うはずです。

殊に、現在のように面倒なことがサイズを問わず襲いかかってきている状況において、瞬時の判断が連続的に求められます。包括的かつ分析的に捉えられる時間も限られています。

https://www.nikkei.com/article/DGXZQOCD091BF0Z01C22A1000000/

現実の捉え方と希望の持ち方をセットで身に着けておくのがサバイバルにも必須でしょう。困った状況を、どれほどに困った状況であるかと分析し、「困った!困った!」と嘆いていても、前へ進めません。

最近、このような文脈で、講演などでも映画”Life is Beautiful”をかなり頻繁に引用しています。20年以上前の公開間もなく、この映画を初めてみたとき、それなりに深い感銘を受けました。だが、これほどに世界を生き抜くに必要な内容であるとは、当時は思っていませんでした。しかし、今だからこそ、強く思うのです。

第二次世界大戦中、ユダヤ系イタリア人のグイドが妻と小さな息子と一緒に強制収容所に入ります。そして母親は別の場所に隔離され、息子・ジョエズは寂しく思うのですが、グイドはジョエズに現実の見方を教えます。

母と引き離され不安がるジョズエに対しグイドは嘘をつく。「これはゲームなんだ。泣いたり、ママに会いたがったりしたら減点。いい子にしていれば点数がもらえて、1000点たまったら勝ち。勝ったら、本物の戦車に乗っておうちに帰れるんだ」。絶望的な収容所の生活も、グイドの弁術にかかれば楽しいゲームに様変わりし、また、周囲の子供たちと引き離されてしまった父親たちの助けや、「シャワーの日(実際には毒ガスで殺害する日)」にジョズエがシャワーを嫌って父の言うことを聞かずベッドに隠れた運の良さから助かり、ジョズエは希望を失うことなく生き延びることができた
Wikipedia ライフ・イズ・ビューティフル

まったく非現実的なおとぎ話と見るか、ここに生きていくうえでのヒントが詰まっているとみるか、それぞれの人の見方です。ただ、この映画を能天気がゆえの解釈と考えるとすると、「それでは、どこに突破口を見いだせば良いのか?」ということになります。

ナチスの時代の強制収容所から逃げ出せた確率、あるいは結果的に生存できた率は諸説あって正確な数字は分かりませんが、「生き延びると希望がもてない人間は弱い人間だ」と判断されるような場所ではなかったはずです。それでも、希望をもとうとした人は実際にいたのです(ぼくも、生き延びて後に本を書いたイタリア人の子孫から話を直接聞いたこともあります)。

ぼくたちは事例の数をまともに見れば前進できないなかでも、前進せざるを得ないことが多々あるなかで生きているのです。仮にナチスの兵に強制収容所の入り口で命を落とすデータを見せられても、どこかに穴があるはずだ、考えられる意思が人の能力なのだと思います。

人が相対しているこの現実を踏まえて #AIに奪われない仕事 というテーマが、その先にあるのだと思います。一見、ものの分かったようなロジックに右往左往しない、これに尽きます。

写真©Ken Anzai



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