「運」を科学する(再考)
拙著『データの見えざる手』に「運」を科学的に分析した章がある。運とは自分にとってよい情報や人やコトに出会う確率現象だとすると、この社会現象にも、物理学的なアプローチが有効なのではないか、という視点で書いたものである。
この章の目玉にあたるのは以下の実験である。それは、あるコールセンタでの顧客からの問合せに関するものである。問合せの中には、マニュアル通り簡単に答えられるものも当然ある。しかし時々、簡単には回答できない想定外の問合せも含まれる。このような難易度の高い問合せを受けた人が、回答するまでにかかった時間を計測し、加えて、コールセンタの従業員同士の対面での人の繋がりをセンサでデータ化し、解析したのである。
このような想定外の要求に対し、うまく対応できた人(即ち生産性の高かった人)は「運」のよい人としたのである。
まず想定したのは、顔の広い人、即ち沢山の人と対面での繋がりを持っている人は、運がよいのではないか(想定外の問合せに対応力があるのではないか)という仮説である。ところが、データを見ると、そのような相関は全くなかった。
実は、当人から見て、2ステップ先、即ち、知り合いの知り合い、が多い人が、想定外の問合せに短時間に対応できていた。すなわち運がよかったのである。
これより拙著では、運がよくなるためには、顔の広い人と繋がっていることが重要であると結論づけた。その結果、2ステップ先まで含めた繋がりの数が増えるからである。一方、単に顔が広い人は、運がよくなるわけでない(生産性が高いわけではない)という結論だった。
最近になってこの議論は不十分であることに気がついた。よく考えてみると、いろいろな人に繋がっている顔の広い人は、運がよい(生産性の高い)人を生み出していることになる。バレーボールで言えば、運がよい人は、アタッカーにあたるが、顔が広い人はセッターである。セッターとアタッカーが互いに協力して結果が出ているのである。この時に、アタッカーだけを評価し、セッターを評価しないのは明らかにおかしいと気づいたのである。
運がよい、個人としての生産性が高い人の行動をベストプラクティスとして持ち上げ、それ以外の、例えば顔が広い人を生産性が低いひととラベルづけするべきではないのだ。
仕事の成果を、個人に割り当てるのは危険である。データを客観的に計測し、仕事の相互依存まで考慮する時、我々は、セッターの役割をしている人の重要性を認識できる。うまくいっている職場には、このような縁の下の力持ちにあたる人がいる。個人業績で評価するシステムでは、これを壊してしまう危険性がある。
我々は、まだまだデータに学ぶ必要があるし、その解釈が大変重要だ。