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21世紀の「善悪の彼岸」(あるいはキャンセルカルチャーの果ての世界)

今日は好きな映画の話から始めさせてください。ポール・ハギス監督の「クラッシュ」という映画について。確かアカデミー賞を取ってるはずです。どういう映画かというと、典型的な群像劇で、数人の登場人物たちがその運命を絡ませながら、ある1日に起こる物事の顛末を重層的に描き出すというものです。それぞれの物語はエピソード的に独立しつつも、映画の途中で登場人物たちが混じり合い、予想もしなかった結末を辿ることになります。時にそれはささやかな救済に、時にそれは救いのない悲劇に。物語の中心のテーマは人種差別なんですが、説教くさい教訓話ではなく、リアリティを重視するアメリカらしく、良い人間が必ず助かるわけでもないし、都合の良い「悪者」も出てきません。それぞれの人物は、自分の選んだ「選択」の結果を引き受けつつ、物語は奥深い感動につながる結末を準備しています。未視聴の方は、ぜひともご覧になってください。アマプラのリンク一応貼っておきます。日本のアマプラでは現在見られないみたいなんですけど、いつかみられるようになるかもしれないし。

登場人物の一人に、ライアンという白人警官がいます。今からクラッシュの中の一つのエピソードに関して、ネタバレするので、お気をつけくださいね。

あ、本論の大事なところは、映画の話が終わった(3)からです。映画のネタバレを飛ばしたい方は、↓の目次の「(3)バラク・オバマの懸念」から読んでいただけると嬉しいです。

(1)映画クラッシュのあるエピソード(ネタバレあり)

さて、では改めて映画「クラッシュ」の白人警官ライアンから話を起こしたいと思います。ライアンは職務に忠実な有能な刑事で、同僚の信頼も勝ち得ています。そのライアンに、トムという理想主義的な若い白人の警官が相棒としてついています。この組み合わせが最悪でした。というのは、ライアンが極度の人種差別主義者だからです。

この二人の警官の物語は、ライアンがある黒人夫婦に対して嫌がらせするところから始まります。嫌がらせというか、凌辱、というかほとんどレイプです。旦那さんの方に、言いがかりのような難癖をつけて捜査と称して、公道で陰湿ないじめのような捜査をするのですが、それに怒った奥さんのクリスティンを羽交い締めにして、武器を隠して所持していないかどうかという名目で全身を触り(もちろん胸もですよ)、最後にはおそらく性器のなかに指を突っ込みます。見ているだけで、少し吐き気を覚えるような、怒りを感じるような差別的行為が描かれます。そしてこのようなことは、アメリカでたびたび起こる白人警官による黒人への捜査の名のもとに繰り返される苛烈な暴力を見るにつけ、頻繁に起こっているであろうことが予測されます。

さて、このライアンですが、360度、どこから見ても完璧に人種差別主義者です。アメリカ人の視点から見ても、人種差別に対してやや鈍感な我々日本人から見ても、異論なく人種差別主義者。ところがこのライアンですが、最初に陵辱をしたこの黒人女性クリスティンを、自分の命さえ危険に晒して助けるというシーンが、このエピソードのクライマックスで描かれます。ある事件をきっかけに黒人女性が乗った車が大事故を起こして横転するのですが、車中に取り残されたこの黒人女性を、ライアンは助けに行きます。しかも燃え盛っていて、今すぐにでも爆発しそうな車の中にです。その救出劇の描き方が極めて秀逸なんです。

クリスティンは、もちろん、自分を助けにきた人物が数日前に自分を凌辱した白人警官ライアンであることに気づき、激しく抵抗します。「触らないで、あっちに行って!!!!」と、声をかぎりに叫びます。ライアンの方も、飛び込んだ先にいたのが、自分が辱めた女性であることにすぐに気づいて、一瞬たじろぐのですが、すぐに持ち前の勇敢な刑事としての本分を発揮して、冷静に現場の状況を女性に伝えて、彼女の体には絶対に触らないことを誓い、燃え盛る炎の中から救い出そうとします。必死に引っ張り出そうと試みるも、何かに引っかかって女性がどうしても出てこない。そうこうしているあいだに、隣の車から漏れ出てきたガソリンが、炎を纏って近づいてくる。絶体絶命…という流れなんですが、最終的にライアンは女性を助け出すことに成功します。そして二人は燃え盛る車をバックにして、しっかり抱き合う、という流れです。最初に引用したクラッシュの動画リンクで、二人の男女が抱き合ってると思いますが、映画のメインのシーンとなるほどに、この部分の二人の行動が、映画のテーマを象徴しているんです。つまり「衝突(クラッシュ)と理解」。

(2)アメリカが描き出す「個」の分厚さ(ネタバレ続きます)

こんなふうにプロットラインだけを書き出すと、もしかしたら「??」となる方もいらっしゃるかもしれません。日本の映画でこの手の人物が出てくると、勧善懲悪的世界観の中、「ひどい人種差別主義者」として、罰されるようなエンディングが準備されがちな気がします。少なくとも、不可解な和解とも看做されうるようなプロットは準備しないのではないかという気がします(むしろ日本の場合、勧善懲悪の呪いを脱した物語は、もっと突き抜けた発想をしがちですね)。でもそこが、映画大国であり、フィクション大国であるアメリカの面白いところです。映画においても、プラグマティズムとリアリズムが前面に押し出される。我々の現実はいつだって、個々の人間の毎日の些細な行動によって作られていることを、アメリカ人ほど強く認識している国民は他にいないでしょう。そのリアリティを重視した世界観によって照らし出されるのは、人間を類型として描き出さないということなんです。人種差別主義者の白人警官というステレオタイプで物語を駆動させるのではなく、一人の人間の背景を書き起こして、その人間の複雑に抱える矛盾を描き出しながら、その矛盾から導き出される行動や結論を描こうとする。だから物語に命が宿り、唐突に見えるような和解に対して、説得力が生み出される。プロットを書き出すだけでは伝わらない物語の分厚さが準備されるわけです。

このようなアメリカ人の態度は、まさに典型的な「ステレオタイプ的思考」そのものである人種差別が横行する国家である一方、人種間の理解を進めようとする機運やマイノリティへの理解もおそらく世界で最も深い国家であるからこそ生まれてくるものです。人を肌の色や血で判断することの宿痾に何百年も苛まれる一方、人間の行動こそが、一人の人間の本質的な性質を決めるという、理想主義的リアリズムが、一国の中で常に価値観のせめぎ合いを作り出している。この融和することのない人間観の対立こそ、アメリカの病でもあり活力でもあり、そして現実そのものでもあるからこそ、あの実直にして夢見がちで神経質で英雄主義的な「アメリカ人気質」が生まれるのでしょう。

ちょっと話が脱線しましたね、映画に話を戻します。この人種差別主義者であるライアンの物語と好対照を成しているのが、ライアンとペアになっている、若い白人警官のトムの結末です。理想主義的なトムは、ライアンの人種差別主義的な表層だけを見てしまって、ライアンのもつ複雑で矛盾を抱えた人格を見ようとしなかった。その眼差しの青臭い幼児性こそが、彼に悲劇をもたらすことになる。その悲劇は、痺れるほどに後味が悪く、「アメリカのナラティブ作りの伝統は凄いな」と、しばし放心したほどです。

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(3)バラク・オバマの懸念

こうしたアメリカの物語が描く分厚い「個の描き方」は、クラッシュという映画を見ているとひしひしと感じるのですが、そのことを改めて意識させられる文章を、数年前に見ました。それは、2019年の10月に、2代前のアメリカ大統領バラク・オバマ氏の講演記録を見た時のことです。オバマ氏は、オバマ財団のサミットにて、こんなことを語っています。

「変化を起こすことはできるだけ他者に対して手厳しくあることだとする風潮を、わたしは一部の若者の間に時々感じる。ソーシャルメディアによって、それはさらに加速している。だが、もう充分だ」
「世界は混迷としている。曖昧な部分もある。素晴らしいことをする人にも欠陥はある」

引用元 : https://www.businessinsider.jp/post-201621

このオバマ氏の発言は、アメリカに現在も吹き荒れるコールアウトカルチャーやキャンセルカルチャーに対して言及されたものですが、これらの運動が「個」の多様性を萎縮させることへの、強い懸念の表明になっています。

キャンセルカルチャーがもたらす徹底的な罪の糾弾と、それに続く「被告」の社会的抹殺が、社会を狭隘化する病になることを、オバマ氏は憂慮しているわけですが、その発言の根底には、映画のクラッシュで描かれた人々と同様、個々の人間が孕む、矛盾する個性のあり方への理解と自覚があることがわかります。キャンセルカルチャーは、ある時点での一人の人間の発言や行動を過剰にスティグマ化して強調し、その「罪」を、一人の人間の全個性へと適用する呪いへと変換するような行為です。そしてそのような「呪い」は、SNSの遍在化によって誰にでも降りかかる可能性がある以上、社会全体が萎縮することは明白でしょう。誰もが自分の存在を、たった一言でキャンセルされる可能性がある以上、黙っている方が得策となります。世界全体の「非協力ゲーム化」であり、その意味では絶望のナッシュ均衡ともいうべき事態です。何と萎縮した世界でしょうか。

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(4)キャンセルカルチャーと日本の行方

さて、今日はずいぶん遠回りましたが、こんな遠回りの理由は、この7月から8月にかけて、同じ根を持つような事件が日本の社会にも現れたように思うからです。今それらを具体的に指摘したいとは思いませんが、日経のこんな記事を引いてみましょう。

この記事の最後の部分は、おそらく今後の日本において、より強く現れる傾向になります。上ですでに言及したキャンセルカルチャーですね。引用します。

一方、キャンセルカルチャーの広がった米国ではリスク回避のため「若者が自分を何らかの被害者だとみなしたがる傾向が出てきた」と政治学者フランシス・フクヤマ氏がある雑誌で指摘している。前向きな活力が失われたり、真の被害者が埋もれたりする危険はないか。日本でも丁寧な議論が必要になりそうだ。(上記記事より引用)

日本では、まだここまで至っていないのが現状ですが、早晩同じ状況に至ると考えられます。

というのは、基本的に「出る杭はみんなで盛大に叩いて、出る前の高さよりも低く押し込めないと気が済まない社会」である日本にとって、生存戦略として「弱者」や「被害者」の立場をとるというのは、ある意味では理にかなっているからです。蔓延する怯えと閉塞感がもたらすのは、「振る舞いとしての弱者」というフェーズ。それはもう、どれだけ相手よりも地面に這いつくばることができるかを競う、暗澹とした生存競争になります。そしてそのような場においては、「弱者であること」や「マイノリティであること」の本当の辛さやしんどさが、逆に覆い隠され、ファッションアイコンのように濫用される未来が来るのかもしれません。それはもはや、ディストピアとさえ呼べない、「善悪の彼岸」の到来です。

(5)21世紀の「善悪の彼岸」

ニーチェはかつて、キリスト教の価値観を完全に否定し、その道徳を、ルサンチマンに基づく「奴隷道徳」であると痛烈に批判しました。今ニーチェを読むと、あまりのキレっぷりに19世紀によくこんなこと書けたなと思うし、今の時代に生きてたら、SNSに瞬時に焼き尽くされる大炎上を瞬く間に引き起こすことが確実だと思うんですが、それでもニーチェの預言者的な箴言は、今でもまだ有効だと感じます。

ニーチェが常に問題視するのは、善悪の価値の判断に「反動性」があることでした。良いとされている道徳が、実は憎悪や嫉妬を基盤にしていたり、逆に悪いとみなされているような価値観には、生の充実が横たわっていたり、そのような「反動的価値観」が、2000年間、ヨーロッパを蝕んできたとニーチェは19世紀の末に告発したわけです。ニーチェがいう「善悪の彼岸」とは、その反動的価値観の「向こう側」、それを「超人」とか「貴族道徳」と彼は呼ぶわけですが、その単語の持つ中二病的な響きは横においても、ニーチェは「善悪の彼岸」で、長らく転倒してきた倫理的価値観の超克を図ろうとしているんですね。

さて、21世紀に生きる我々は、まさに今、「善悪の彼岸」の、その岸辺に立っているのかもしれません。ただし境界線の向こう側、「彼岸」で待っている世界は、ニーチェが目指した「貴族道徳」が成立する世界ではなさそうだというのが、今の所の悪い予感です。むしろ、この「21世紀の善悪の彼岸」は、ニーチェが批判したよりもさらに救いのない、「価値の反動」を準備するのかもしれません。つまり、弱者という隠れ蓑で全身を覆い隠して、ただただ燃え盛る炎を回避し続けることが、至上命題となるような社会。

僕らはそんな世界が来ることを予期して備えなくてはいけないのかもしれない、近頃そう感じるのです。いや、だめですね。そんな世界は流石にしんどいです。今からこうやって観測気球のような文章を上げ続けながら、蔓延する「空気」を変えていくささやかな努力をしていくべきなんでしょう。今日はそんな自戒で締めたいと思います。


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