なぜテレワークは普及しないのか ― コロナは終わらない(下)
私たちは見えるものを見ている。見えているものをさらに見えるようにしようとする時代を生きている。大切なことは見えない。かつて見えないもののなかに埋め込まれている大切なことを掘りおこそうと、見えないものを観ようとするのが日本文化だった。見えない大切なものを見ようと思い、見ようとしなければ本質は観えない。500年前、世阿弥はこういった。
1. なぜテレワークは普及しないのか
25年前のインターネット元年のような「うちは、まだ早い」という空気感が流れている。日本はインターネットの失敗をまた繰り返そうとしているのではないだろうか。
緊急事態宣言の主たる取り組みにテレワークが位置づけられているが、テレワーク実施率は3割にも満たないという。「なぜテレワークしないのか?」の問いに、やらない理由・やれない理由がいっぱい並ぶ。国がめざすテレワーク率7割と大きくかけ離れているのに、答える人たちには「大変だ」という危機感は感じられない。
一方コロナ禍だからデジタル社会だ、DX(デジタルトランスフォーメーション)をしなければというが、それは“情報系”の人がやればいい、それが得意な人がやればいい。私には関係ないと当事者意識がない。テレワークを広げられないのに、DXは到底進むわけがない。
テレワークをしてみたけど、「生産性」が落ちた。やはりオフィスに集まって、みんなで働かないと会社はまわらない。営業はお客さまのところに行ってなんぼのもんや、うまいこと伝わらん、オンラインはあかん無理や。だからテレワークをやめて、元に戻した。
テレワークができるのは大手だけ、わが社のような中小企業はまだまだといっているうちに、感染者数が増え、第4波となり、3度目の緊急事態宣言となった。また「テレワーク」といわれても無理や…といっているが、自宅ではオンラインショッピング、SNSを楽しんでいる。
やらない多くの企業を尻目に、昨年の緊急事態宣言からテレワークに転換して成果をあげている企業がある。1年で大きな差がすでについているということに、やらない多くの企業は気づいていない。
テレワークはわが社の企業風土・企業文化にはあわない ― だからテレワークはしないという企業も多い。そういった企業はいまだインターネット前の時代の仕事の仕方で、仕事を「業務」で定義し、インターネット時代の仕事のスタイルになっていない。
仕事は「一人で仕事をこなす」一人ワークと、「仕事をうみだす、仕事を深める、仕事を広げる」チームワークに分かれているが、仕事を「生産性」のみで捉え、仕事の「質・中身」で捉えない企業が多い。仕事の定義・スタイルを見直すこともなく技術論としてテレワークを位置づけているから、テレワークが進まないのは当然である。
コロナの本質は、「時間」と「場」の構造が変わること。コロナ大断層(リセット)は「テレワーク」が起点ではないかと思っているが、そのテレワークが進まない。コロナ禍は社会的価値観の変化とコロナ禍に伴うDX化によって、「場」が変わり、その人の時間が変わり、人と人の関係性を変える ― こういう構造で社会は変わろうとしている。それは日本だけの話ではない、世界も同様であり、世界のなかでの日本はどうなのかをおさえることが大事である。ワクチン接種に出遅れているのと同様に、コロナ禍後の社会変革に大きく出遅れているような気がする。テレワークはまだまだ…といっていいのだろうか。
2. テレワークが変えるコロナリセットの本質
■ 「生きる様」が変わる
テレワークを会社の働き方の変化という側面だけで見ていると、本質が観えてこない。テレワークはワークとライフが溶け合い、融合し、1日、1週間、1ケ月のライフとワークのタイムラインを変える。テレワークに慣れていくと、”ワークがどう・ライフがどうではなく、どう生きるか”が重心となっていく。
福武書店が30年前に社名を“Benesse(ベネッセ)”に変えられた。ベネッセはラテン語の造語でベネフィットの「ベネ」=よいと「エッセ(esse)=生きる」を組み合わせ、ベネッセ=「よく生きる」という意味が込められている。
ライフとか生活とかではなく、「生きる様(さま)」を指している。「エッセ(esse)」の語源は「存在する」であり、「存在するというカタチ」を示し存在論につうじるが、コロナ禍後において、この「存在=エッセ(esse)」が重要なキーワードとなっていくのではないだろうか。
■ 「街で生きること」を変える
テレワークを契機とした家のなかでの「ライフとワークの融合」が街に広がり、街が変わっていく。
これまでの街が人を「集める」から、
人が街に「集まる」に変わろうとしている。
毎日電車に乗って、遠い都心の会社・学校に通って、帰るという移動するスタイルから、移動しないスタイルとなろうとしている。街は寝るだけの場所から、一日の大半をすごす場所となる。家を中心に近所をふらっと歩き、ゆったりと居心地がよく気持ちがいいという街が選ばれていく。
コロナ禍でゆっくりと、都心から郊外・地方に人の流れが移っていこうとしているが、そのカタチは一律ではない。人が移っていく郊外とそうでない郊外に分かれる。これまで都心に街機能を依存し「住むだけ」だった郊外・地方に街の機能を加え、都心と郊外・地方の関係性を再構築しなければいけなくなる。そこにはハードによる再構築・再生だけではなく、「エッセ(esse)=生きる様」が求められる。「その街に暮らすという意味」を再起動していくことが求められる。
3. 再起動(ルネッセ)
この30年、オフィスでよく使われた用語のひとつに、「効率化」がある。なんでもかんでも効率化。インターネットなどの情報技術を「効率化」の武器と位置づけ、無駄だと、多くのモノ・コトが排除された。仕事だけでなく、福利厚生などは格好のターゲットとなり、仕事につながらないから「いらない」モノ・コトと位置づけ排除され、オフィスから消えた。
「会社=Company」の語源はラテン語のcom(ともに)+panis(パンを食べる)の合成語であり、会社の本質は「みんな一緒にパンを食べる仲間」である。社員食堂は社員にとって大切な場所だった。2011年5月から放映されているNHKの人気番組「サラメシ」に登場する社員食堂やまかない料理をみんなが喜んで食べている姿を視ると、”いいな”と共感する。
その社員食堂がこの30年で大きく減った。効率化・費用対効果を勘案してといって切り捨てられた。社員食堂は昼食をとるだけの場所ではなく社員の対話・コミュニケーションの場でもあった。その社員食堂を無駄だ、非効率だといって、無くしたり縮小したりした。そういう場が無くなったことが社員の対話を減らし会社の力を弱めているのではないかと考えだしているときに、コロナ禍となり、テレワークをどうするかを迫られている。
先日、神戸市に本社のある食品メーカー「フジッコ」の社内報で、「コロナ禍とフジッコ」をテーマに、福井正一社長と対談させていただいた。対談のなかで社員食堂について社長はこう語られた。
「以前の食堂は昔からあるいわゆる「食堂」でした。対面に人が座っても、ただ食べてすぐ出ていくような場所でした。要は対話ができる場所ではなかったんです。社員食堂とは人と人との雑談が生まれたり、オフサイトミーティングができる場所であるべきだと思っていました。社員食堂をもっとコミュニケーションを取れる場所にしたいと思っています。もうひとつは、もっとおいしいものを食べたいという想いを持っていました。(中略)健康創造企業と宣言しているのに不健康な食事をしていてはあかんでしょ…」
〔FUJICCO JOURNAL/vol.288(巻頭特別対談)より〕
そのフジッコの社員食堂が面白い。フジッコの食品開発にかかわる一流シェフも参画した「おいしい×健康」食堂をコンセプトとした毎月第4金曜日の月一食堂はもとよりフジッコの社員食堂は、近隣のポートピアホテルのシェフとの「交換留学」や飲食店などとのコラボで、従来の社員食堂の概念を超えた社員食堂として再起動している。効率化・費用対効果で社員食堂を無くす動きとは反対に、コロナ禍なのに、いやコロナ禍だから、社員の笑顔が集まる社員食堂づくりをされている、Companyの語源そのものに。
それだけではない。他社が無くしたり減らしたりする紙のフジッコの「社内報」は面白く、懐かしい。その紙面には、私たちがどこかで無くしてしまった社員のみならず家族の笑顔が濃密に詰めこまれている。また本社ビル内のあちこちに掲示されている部活の勧誘ポスターは高校生・大学生のノリで、これも徹底的に明るい。圧巻は「敵は、これまでの『当たり前』」というポスター ― 徹底的に楽しく、明るい。
圧倒的な「存在」感がある。社長をはじめ、お会いしたフジッコの人はとにかく明るい。
コロナ禍・コロナ禍後社会を考えるキーワードは「存在(esse)」ではないだろうか。いつかどこかで失った「存在(esse)」を取り戻して再起動するコロナ禍後社会を見据え、いつかどこかで失った日本の大切な本質、存在を取り戻して再起動すの方向性を「日本再起動(ルネッセ)」として書いた。コロナ禍の緊急事態宣言下、ゴールデンウイークに、ご関心があればご一読ください。
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