「会社」を3人称から1人称にしてみよう 〜weの主体性
お疲れさまです。uni'que若宮です。
今日と明日の2日に渡り、「3人称から1人称へ」というテーマで記事を書きたいと思います。
本日はまず第一回目として、「組織で働く」ということについて書きます。
「会社=They」の関係
組織やマネジメントの相談を受けることもあるのですが、その時に上手くいっていない組織から多く聞かれる言葉として
「会社の頭が固くて…」
とか
「会社に言われて…」
というものがあります。
「会社が」という言葉が使われるのは、意識の中で「私」と「会社」が自他分離してしまっている状態です。
「会社」は「They」という「3人称」であり、「私=I」とは別の存在です。図式にするとこんな感じになっています。
Iとtheyは異なる意思をもつ存在ですから、「私」はやりたいことがあれば「会社」を説得し、決裁承認を取る必要があります。あるいは「会社」の命令に従い「私」はなにか業務を行います。
「私が会社を説得する」とか「会社が私に命令する」という言い方は、その相手を「対格(目的格)」にとった表現です。この関係性においては一方が「能動態」であれば、相手は「受動態」になります。主語側の意思によって対格側の意思や行動を変えさせるという構造なのです。
そしてそれ故に、「対格」のこの「対」の関係性は「対立構造」を生んでしまいがちです。I/theyという「主客分離」(主語と目的語の分離)の状態は、どちらかの意思の通りに相手を負かす、という闘争にすらなりかねません。
このように、「会社が」という言い方をする時すでに、無意識に会社は自らとは分離され、対立構造に位置付けられます。
そしてこの状態にあると、やっかいなことに「主体的」に行動する「自責」的なひとほど、不満やストレスを抱えてしまうことになります。なぜなら能動的に動きたい「私」の意思にとって、他者の意思が邪魔になるからです。「私」一人ですぐ実行できることもわざわざ「会社」に承認を取らなければいけなかったり、「私」がしたくないことを「会社」に命令されたりする。「私の意思」をしっかり持っている人ほどフラストレーションが溜まります。
「会社=We」の関係
これに対し、「会社」と「私」が分離していないのがweの状態です。
よく考えてみれば、そもそも「会社」というのは「自分の外」にあるものではなく、自分自身もその一部を構成しています。
単に生活費のためのアルバイトや日雇いの仕事の場合、会社の一員という意識は薄く、一時的な関係として割り切っていることもあるでしょうが、企業での採用では「ヴィジョン共感」や「カルチャーフィット」が重視されてきていますし、あなたも「この会社で働きたい」と思い、「中」に入ることを願ったはずです。
こうした想いをもって働いている時、「会社」は他者ではなく、自分もそこに含まれている「私たち」という一人称複数形としてあります。「私」がなしたいことやなすべきことではなく「私たち」がなしたいことやなすべきことを考え行動します。説得したり命令されたりするのではなく、「会社」という一人称を一緒に生きている。
こうした状態は主語の意思によって「する/される」という「対格」的関係ではなく、「中動態」的状態であるとも言えます。
「中動態」とは、「能動態」/「受動態」という態よりも古くにあった動詞の態ですが、この態においては主客が分離していません。「中動態」はアート思考やコミュニティ論的にも興味深い態ですが、その一つの性質として、再帰的であることが挙げられます。
再帰的とは行動の先が自分自身にかえってくるものです。たとえば、古代ギリシア語の「洗う」という言葉は他者を洗う時には能動態 λούω(洗う)ですが、自分を洗う時には中動態 λούομαι(自分を洗う)となります。自分の行動の先が自分に帰ってくるのであり、そこには「自他」という区別ではなく、自らの変化があります。「私」対「会社」で「(私以外の)会社」を変えようとするのではなく、「(私を含む)会社」自体が変化するのです。
I/theyではなく、Weで考えよう
「会社が」という言葉が思わず出てしまう時、私たちの中で「会社」と「私」が分離してしまっています。
会社を他者として自分から切り離してしまうと、対立的になり、自分ではなく相手側に問題がある気がしてきてしまい、不満も募ります。しかし、本来「私」も「会社」を構成する一員ですから、その責任は分有されています。問題は相手の中にだけあるのではなく、「私たち」の中にあります。「会社」に対しての不満も天に吐いた唾のように、自分に「再帰」するのです。
会社はどうしてわかってくれないのか
と言う時、つい自分を棚に上げて「会社に変わってほしい」と思いがちが、これを「私たち」を主語にして
私たちは、この齟齬をどうしたら解消できるか
という風に問い直すと、自分ができるアクションまで含めて、組織全体をどう良くしていくか、という問いになります。
能動/受動の時には主体性が高い社員ほど不満が募りがち、という罠がありましたが、weの主体性は「私」と「会社」で対立せず一致します。組織における本当の主体性とは「私が」ではなく、「私たちが」どうすべきかを考える、一人称複数的な主体性ではないでしょうか。
↓こちらの記事ではスポーツ界がチーム同士の「対立」や「勝ち負け」を超えて、リーグ全体の発展を目指す事例が書かれています。各チームがI/theyではなく、weとしてリーグ全体のことを考え、変化していこうとしているのです。
スポーツの世界では、一足先にそんな変化への胎動を感じる事象が増えています。例えば、かつてはプロ野球の名物ともいえた乱闘も、近年はめっきり少なくなりました。より具体的には「コリジョン(衝突)ルール」の採用など、自分のチームが勝つことばかりを考えるのではなく、リーグ全体の発展、すなわち最適化を優先する思考が主流になってきました。
また、目的語が「会社」になっていると仕事が近視眼的になるという罠もあります。大企業ではよくあることですが、仕事の成果が社内評価など内を向いてしまうと、同僚をライバル視したり、他部門を敵視したり、ということが起こってきます。
しかし、本来仕事の目的は勿論、「会社」の中にはありません。企業の目的は「社会」に対して価値を提供することです。
社内で「私」と「会社」で押し引きするのではなく、「私たち」として「社会」に向き、価値を届けるためになにができるかを考えていくことが大事です。weとして「会社」が一体になることで、その目線を内ではなく外に向けることができます。
そしてさらにいえば、「会社」と「社会」の主客の関係すら変化し、「社会」も「目的語」ではなくなってくるのがこれからの時代だと考えています。
この点については、明日改めて「共鳴のマーケティング」の話として書きたいと思います。まて次号!
(追記)↓続編はこちら