階段が、なくなるとき
最近、あるアナリスト向け昨年度決算発表後の質疑応答の中で、興味深いコメントがあった。若年層顧客を低価格帯からプレミアム価格帯へ移行させるマーケティングについて問われた、ある大手化粧品会社社長の答えである。
もはや「いつかはレクサス」に倣う階段を上るような消費行動は過去。消費者は、本当に自分にとって(あるいは、サステイナビリティの観点から、世界にとって)いいものとはなんですか?と問うようになっているという趣旨だった。
この旋回は、車から化粧品まで、おしなべてブランドを扱う企業にとって、大きな意識変革を意味する。上から下までそろえたブランドポートフォリオを持つメーカーにとって、マクロ市場の成熟と個々人の人生ステージにしたがって、いかに巧く顧客を逃さず、なるべく自社ポートフォリオ内でトレードアップさせていくかという命題は、これまで非常に重要なものだったからだ。
しかし、デジタル化により消費者の圧倒的な情報力が増したことにより、「いつかはクラウン」や「キャンキャンから姉キャンへ卒業」という分かりやすい階段が消滅してしまった。年齢に影響されず、自分の哲学やライフスタイルによって消費が選ばれる時代になったのだ。例えば、シニア女性もプチプラの化粧品を臆せず使いこなしている。
情報量と選択肢を手にした個人が、これまで暗黙の了解だった「階段」を無視する現象は、消費財に限ったことではない。会社人生においても、若い時は不条理に耐えながらも丁稚奉公し、同じ組織で「島課長」が「島社長」に上り詰める、というストーリーは、既におとぎ話のようだ。優秀な若い層は、我慢せずとも外に選択肢がいくらでもあることが分かっている。
ところが、この状況は中高年にとっていかにも面白くない。自分は先を行く先輩に従い、一心に階段を上ってきたつもりなのに、ふと振り返れば、背中を追ってくれるはずの後輩も、もはや階段そのものもなくなっているのだから、驚きだ。
では、この事実に直面する私たちは、どう意識変換を図ればよいだろう?特に、仕事人生を20年以上残すミドル層の氷河期世代にとって、切実な問いである。
ひとつの答えは、いまの仕事、職場を大きな「階段」の一ステップとみなさず、ひとつの「プロジェクト」とみなすことだと思う。私はそもそも短期プロジェクトを生業とするコンサルタントなので、自然になじむ考え方だが、一般のホワイトカラー職でも、期間を長めに捉えれば応用できると考える。たとえ一見区切りのないルーチンワークでも、期間に区切って自分の目標を立てれば、何かを成し遂げるプロジェクトと解釈できるだろう。
プロジェクトには必ず始まりと終わりがあり、有形無形の成果物を伴う。そのメンバーもプロジェクトに固有、終わればドライに解散するものだ。
プロジェクトを仕上げる仲間ならば、年下のメンバーに対し、常に背中を追ってくれることを期待することもない。ある期間、共通の目的に向かって色々な意見を出し合う平等な立場として見ることに抵抗が少なくなるだろう。
仕事人生は、結局プロジェクトの集大成であり、その中で「自分が」ステップアップしていけばよい。与えられた定型の階段を上る意識から、内なるステップアップを目指す意識に移ることを意味する。次に何が来るか予想できる安心感が減る代わりに、自分で次のプロジェクトを定義できる自由度は増すだろう。
情報量と選択肢を持つということは、それだけで有利にはならない。その情報を咀嚼し、自分にとって良い選択ができて初めて意味を持つだろう。
消費者としても、労働者としても、私たちは親世代とはまったく違う価値観の中にいることを自覚しなくてはならない。