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客としてではなく、自分の能力を補い、拡張してもらうためにお金を払う

仕事のポリシーは何かと問われて、実はパッと言葉に出来ない自分に気がついた。

改めて、どんなことを自分の仕事のポリシーとしてきただろうと考えると、仕事の上で自分の後輩を持つようになってから、「仕事の 川上と川下をよく見て、自分の果たすべき役割を考えることが大切」という話をしていたことを思い出す。

自分のやっている仕事は、その前に誰かが何かをやったことを受け取って、そこに自分が何かを付け加え、次の人に渡していくことになる。例えば、トマトを作るのであれば、まず、苗を買ってくる。その苗を作ってくれる人がいて、自分がトマトを育て、収穫したものを売りに出すとそのトマトを売ってくれる人がいる。そういった一つの流れの中に、自分の仕事が位置づけられていることを意識しよう、ということだ。

 トマトの例えで言えば、苗を作る人がどのようなプロセスで苗を作ってきたのかを考えたり知ることが、自分がどのようにトマトを育てたらよいかのヒントになるだろうし、また自分が育てたトマトがどのように売られるだろうかと考えたり、売られている現場を見ることが、消費者に喜んでもらえるトマトを育てることにつながっていく。

そのような考え方、ポリシーは長らく持っていたのだが、この時点では、主に「売り手側」の川上と川下を考えることにすぎなかった。

 最近ではそれが、「買い手側」のことまで含めての、一つの大きな社会や経済循環のプロセスの中に、自分の仕事を位置づけて考えるようになってきた。端的にいえば、お金を受取ったり払ったりすることの意義はなにか、ということである。

一般には、お金を払うのが客の立場であり、かつて言われた「お客様は神様」という意識で、客の立場を一方的に優位なものとして考える人が、いまでも多いように思う。自分も、程度の多少はあってもそうだったと思う。

だが、独立し、お金を稼ぐことの大変さや、自分がお金を払うことの意義を、勤め人の時よりも深く考えるようになった、考えざるを得なくなった今は、お金を払うということは、それによって自分ができないことを代わりにしてもらう、あるいは自分にない能力を分けてもらう、そのような行為であると思うようになった。

先ほどのトマトの例えで言えば、私がお金を出してトマトを買うことは、自分の代わりにトマトを育ててもらうということであり、また、仮に自力でトマトを栽培できるとしても、自分にはできないような栽培技術でより良いトマトを作ってもらう、それによって自分の能力=栽培技術を拡張する、といった意味があるのだ、というのが最近の考え方になっている。

 裏返すと、自分がお金をいただく側であれば、お金を払ってくれる人に対して、その人が手が回らないことや、出来ないことをしてあげられなければ意味がない。その人の能力を補ったり拡張したりすることの価値交換として、お金をいただくのである。

そのように考えれば、いわゆる「客」の立場というのは、単にお金という媒介物を通じて価値を交換しているにすぎない。売る側も買う側も立場に優劣や上下はなく、シンプルに、お互いが納得したうえで価値の交換ができているのか、ということだけが問題になる。

そう考えれば、より良い価値を提供して欲しいと思えば、それに見合うだけのお金をきちんと払うことが必要になるだろうし、その逆もまたしかりである。

そして、私たちは網の目のように様々な仕事が入り組んだ形で社会を構成し、 それによって全体が機能するようにできている。つまりはどんな仕事も私たちが社会生活を営む上で欠かすことができない要素であって、現実問題としての支払われるお金の高い安いはあるが、少なくてもその仕事の存在価値や優劣を言うようなものではない。生物としての人間が多様なものであることに応じて仕事も多様であり、それがフィット・マッチしていることが、働きがい・やりがいを生む

 そう思うようになったことのきっかけの一つは、私自身がアフリカで仕事をするようになったこともあるように思う。仕事先の1カ国であるタンザニア はコーヒーの産地であり、アフリカ最高峰の名前であるキリマンジャロが有名なのは、いわずもがなのこと。この国で育てられたコーヒーが、様々な人の手を経て自分ののどを通るのだ、ということをリアルに体感した時に、タンザニアの状況と日本の状況を、ともすれば分けて考えてしまいがちだが、そこを繋いでいる仕事の連鎖があることに気がつく。 タンザニアでコーヒーを作っている人にも彼らの生活があり、そういった人々の生活を成り立たせているタンザニアの社会がある。その社会に自分がどのように仕事で関われるのだろうか、どんな価値をもたらすことができるのだろうか、と考えると、自分の好きな一杯のタンザニア産コーヒーの味もまた変わってくる。 

最近では「大離職時代」と言われるような仕事を辞めるムーブメントや、 FIREと呼ばれる経済的自立と早期リタイアを目指す動きが世界的な流れになっている。 もちろんこれは仕事に意義を感じられないことに起因するのだと思うが、これは「ブルシットジョブ」と呼ばれるような、意義を感じにくい 仕事がいかに世の中に多いかということを表してもいると思う。

これは、先ほど「どんな仕事も私たちが社会生活を営む上で欠かすことができない」と書いたことと矛盾するようだが、社会に存在していることと、それに存在価値があり意義を感じられることとは必ずしも同じではない。個人の主観や立場によっても、意義や価値が変わってくる、ということもある。結局、自分が意義を感じられるか、ということが大切になる。

退職して一旦仕事を離れた上で、本当の意味での「仕事」の価値を見出すことができるのであれば、これまで述べたような、大きな社会の循環の中の自分の役割といったことと、そこでの「仕事」というものを再発見できるのではないかと思うし、実際にFIREし、いったん仕事を離れた人たちが、再び意義の感じられる「仕事」を見つけて取り掛かる、という動きも出てきているようだ。 

最近、「底辺職」といった記事が話題になったりしていたようだが、世間体や収入の多寡を基準に仕事の優劣を語ることに意味はない。自分にフィットする仕事であれば他人がどう思うかは関係ないのだ。得られる収入が少ない仕事であっても、経済的自立をしていれば、その仕事をすることができる。
場合によってはボランティアも「仕事」になるということだ。

個々に与えられたチャンスやめぐり合わせの範囲の中で、なるべく広い視点で自分の「仕事」の持ちうる意味や及ぼす影響を考えながら、大きな社会・経済の循環の中に自分の仕事がある、という意識を持ちたい。それが最近の私の仕事のポリシーないしは仕事観になっている。

#仕事のポリシー


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