「都会で働く」は歴史の選択~一過性の論調になびく危険性~
以下の点について議論が喚起されているということで筆を取りました。
・「地方」「複業」などを選択肢に、あなたはどんな多拠点生活をしてみたいですか?
・多拠点生活にハードルを感じるとすればどんな点ですか?
・都会で働いている方、このままずっと都会で働きたいですか?
こうした問題意識については過去にも以下のnoteで議論させて頂き、その際には沢山の方に読んで頂きました。同意の声が多かったと感じています:
ここで述べた考え方は変わっていません。私は複業や移住、多拠点生活といったフレーズは一種の「流行」として消えると思っています。今は、以下のような記事も出ていたりして、世は正に移住・複業・リモート全盛という風情です:
短い記事ですが掘り下げてみましょう。「在宅勤務を経験した人は、24.6%が地方移住に関心が高まったと回答した」そうです。しかし、在宅勤務を経験した人が全就業者の何%かも分かりませんし、その大きさの分からない母集団に対して約4分の1が「関心が高まった」と回答したことがそこまで耳目を集める話なのだろうか・・・という印象を受けました。「関心が高まった」程度であればハードルが結構低いのでもっと回答者がいても良さそうな気もします。まず①「関心」を持ってから、②「実行」に移すでしょうから、①を踏まえた上で②に踏み込んだ人がどれくらい居るのかも調査しなければ有意義な実態調査とは言えないようにも思います。そもそも「在宅勤務」と「移住」は全く別の話だと思いますので、両者に因果を求める調査意図もポイントレスに思えます。
在宅勤務を半ば「余暇」と錯誤しているのではないかという風潮も少し感じます。それは以下の記事を見た時に思いました:
SUP(スタンドアップパドルボード)に乗りながらPCで作業するカバー写真が出ております。純粋に「危ないから止めた方が良いよ」という感想しか抱けませんでした。この記事にはほかにも疑問に思う箇所がありましたが、「そういう生き方が趣味なので」という話であれば納得感があります。しかし、これが「DX(デジタルトランスフォーメーション)がビジネスの現場を変える」ことの一例だと紹介されると、そうなのか・・・と呆気に取られる部分もあります。DXの趣旨はこういうことだったのでしょうか。
選択可能性の問題
冒頭に紹介した前回のnoteでも言及しましたが、こういった「都心で働くのが遅れている」、「リモートで働くことが先進的であり善である」という社会規範はやむにやまれぬ事情でそれが出来ない人々を封殺する危うい雰囲気作りだと私は感じます。以前から台風や大雪の際、出勤するサラリーマンを小馬鹿にする風潮はありました。私はあまり賛同できません。
例えばインフラを担う仕事をしている人々は出社がどうしても必要です(もちろん、そうではなく無駄に出社しているという層がいるということまでは否定しませんが)。私のような仕事(調査・分析)はリモート業務との親和性が非常に高いのでそうさせて頂くケースも珍しくありませんが、「リモート勤務できない人が居るから自分はリモート勤務できるのだ」というくらいの謙虚さは忘れてはならないと自覚するようにしております。嵐でも電車が動くのは鉄道会社、電力会社、システムを担う会社etc 現場で支える人がいるからです。金融決済システムもそうです。水や空気のように使われている財・サービスは多くの労働投入が現場でなされているからこそ成り立っているものが多いはずです。
また、リモート勤務は既に人間関係や仕事の知見など、経験値(知)がある人は有効に立ち回れるかもしれませんが、これから人間関係を作り、学びを積み重ねて行かねばならない若者達には酷です。「リモート勤務で十分だ」という強弁は、世代間格差を拡げかねない言動であり、端的に言えば老害の戯言に取られる部分も無いとは言えないように感じます(私も若くはないので想像ですが、漏れ伝わってくる話からはそう感じます)。なお、仕事ではありませんが、今の大学生の状況は本当に不憫でならないと感じます。大学時代にリアルな人間関係を築けなかったことが社会人生活の充実度合いを変えてしまう部分は少なからずあると思います。そこに対する不平不満を「大学は学問するところ」と切って捨てて平気でいられるほど私は冷酷にはなれません。
大事なことはリモートと非リモートの形態を行き来できる選択可能性の問題であって、どちらかに片寄せすることが正義であるという話ではないと思います。もちろん、政府・与党が「7割在宅勤務」を打ち上げた背景には、過渡期ゆえに高めの目標を設定した方が物事が進みやすいという思惑もあったのだと想像します。実際、それで動き始めた会社は多いはずではそれはそれで評価されるものだと思います。しかし「そうでない労働者は遅れている」という勝手な裏読みまではすべきではないと思います。
多拠点生活と「富裕層の別荘」の違いは?
移住・複住というフレーズは確かに盛んに耳にするようになりました。しかし、多拠点生活ができる人は時間的にも金銭的にもある程度裁量が大きな人に限られると思います。会社に勤めていて、月次で定例の賃金を得ている労働者の多くが移住・複住を検討する未来は直感的に想像ができません。そのような知人もみたことがありません。素朴な疑問として、今言われている移住や複住は「富裕層が別荘を持っている」という状況と何が違うのかという印象も抱かれます。「多拠点生活にハードルを感じるとすればどんな点ですか」と言われても「お金」と回答する人が現実には殆どと想像します。聞くほどのことではないのでは・・・と思います。
「都会で働いている方、このままずっと都会で働きたいですか」という問いも、恐縮ながら愚問かと思います。この問いかけの背景には労働者が能動的に東京ないし都心を選んで労働しているという前提がありそうですが、わざわざ東京で働くのは「魅力的な雇用機会が沢山あるから」であって、それが郊外にあれば郊外で働きます。その意味で東京チョイスは能動的ではなく受動的な行動と言えます。誰も好き好んで満員電車には乗りたくありませんし、混んでいるランチタイムに郊外対比で高いレストランに行きたくもありません。「このままずっと都会で働きたいですか」と言われても、不可抗力の末の選択なのだから仕方ない、というのが実情ではないでしょうか。
何より、そうした(いい意味での)クラスター効果が東京に限らず都市の強みです。少し前に著名な評論家(?)の方が「都市化はダサい」という論調を示して耳目を集めていたのを見ました。そのような主張は尊重されても良いと思いますが、そうであれば今の効用水準を保ったまま山奥で過ごせるのかと自問自答してみることも必要かと思います。簡単ではないと思います。世の中はそのように考えるよりも複雑にできていると思います。
一極集中は歴史の回答
やや巨視的な話になりますが、私は人口が減り、高齢化が進む日本経済が一極集中を避け、わざわざ戦力を分散化させるような戦術は悪手だと思います。人口ボーナスで劣るからこそ力を合わせて世界と伍していくナローパスを狙うのが定石ではないでしょうか。「都会じゃなくて多拠点生活」、「移住で生活の質向上」という夢想に浸るのは楽しいでしょうが、コロナが去れば現実逃避でしかなかったことに気づくのではないでしょうか。
歴史的には黒死病やペストなど、今回に限らず感染症危機に見舞われたことが何度かありました。それでも人は集まることを止めず、都市化の流れが続きました。空間経済学の主張を持ち出すまでもなく、それが効率的だったからでしょう。一極集中はリスクもありますが、リターンもある。そのリターン部分の恩恵をこれまで散々預かってきた層が、それを「ダサい」だの「遅れている」だのこき下ろす風潮は節操がないと私は感じます。もちろん直すべきところは直す、で良いと思います。それが必要な部分も今の日本社会には大いにあると思います。今は過渡期ゆえ極端な議論もあるでしょう。しかし、少なくともバランスを欠いた議論は避けたいです。
e-mailで対面価値は落ちたのか?
アフターコロナの世界においては、日常業務においてこれまでよりもオンライン会議は増えるでしょうし、出張機会の減少も予想されます(それも程度問題でしょうが)。とりわけ海外出張は時間的・金銭的コストが小さくないですので、オンライン代替となるものは結構出てくると想像します。国内出張だとそこまでドラスティックなメリットを感じる人は少ないように思います。体感ですが、まだ「リアルで会いたいですね」と言って下さるお客様の方が圧倒多数です。かつてインターネット黎明期(90年代)にもe-mailの普及で対面価値が落ちるという議論があったと聞きます。結果的にどうなったでしょうか?歴史に学ぶ意味はいつだって小さくないと思います。