シナスタジアとニューロダイバーシティ
やってきました、シナスタジア。
ムニョーンと溶けて伸びる感覚。小さく縮む感覚。さざ波になる感覚。そこからの抜け感。そして、終わってからが本番。グーっとためてためてドーン! ジワーッ! じわああー と、いつまでも抜けっぱなしになれる感じを味わいながら、自閉スペクトラムの認知についてぼわーと思いを馳せていました。
自閉症スペクトラム(ASD、ASC)の認知で、下記の部分の擬似的な体感があったような気がしたのです。シナスタジアのクライマックスのところで、両腕に伝わる振動で腕の表面がさざ波のようになって、腕全体から体へと、自分が水面になってざざざざざと波打っているような感覚になったときに。
つまり「そのものになった気持ちになる」というなやまさしいものではなく、「その美しいものの一部になる」のだという。
「たとえばわたしの家の近所に、両脇に川が流れ、気が生い茂る、狭い土手道があります。休みの日にゆっくりしたいときなど、朝日が川面や草木に当たって、とてもキラキラした大好きな光を見てしまいます。見ていると吸い込まれて、わたしがキラキラの一粒になります。息を吸って彼らを吸い込み、わたしの体内からすべて丸ごとまさに光です。
これはたとえではなく事実です。その美しさと同一化したら、美しさの一部になってうれしくて、楽しくて、うっとりと気持ちいい感じです。温泉に入って効能が体に染み込んできいてくると、自分が温泉の湯になった感じがしたことがありませんか。美しいものと一体化するのはちょっとそんな感じです」(自閉症という知性 (NHK出版新書 580) 池上 英子)
自分自身が、その現象そのものに同化する感覚。僕は、自閉症という認知を、これまで大きく、むしろ真逆なものと勘違いしていました。自分の周りに分厚い壁を持って、自分以外を拒絶するようなものだと思っていたのです。
それは、大間違いでした。
ASDの人は、周りの情報を過剰なまでに取得して処理してしまうために、オーバーロードのような状態になって、アウトプットまでたどり着かない状態になるのだそうです。そして、自分を保てなくなるほどに情報過多になる状態をメルトダウンと呼んでいました。
それは、壁が厚いどころか、ほぼ壁なし状態。裸でマイナス30度の世界にいるような、寒さが突き刺してくる感じなのかもしれません。(そういえばこの冬マイナス30度のロシアでミニスカート履いて凍傷になった子がいましたね)
周りの情報を過剰なまでに取得するという状態は、全体をざっくり捉えるということを困難にし、様々なディテールが一気に押し寄せてくるような感覚なのだそうです。
たとえば、この本の中で、ある人は「明朝体が読みづらい」というようなことを言っています。
筆文字を模している明朝体は、トメハネハライの部分に三角形や鋭さなどの独特のフォルムを持っています。これが、それぞれ「図形」として頭に入ってきてしまうため、ひとつの文字として統合されるまでに時間がかかり、それらが並んで文字列となり文章を構成しているのだというところにたどりつくまでに、とても時間とパワーがかかるのだそうです。同じように、花を見ても小さなところから少しずつ見ていくのだそうです。花粉がある、葉脈が堅い、それは水をやったばかりなのかな、などと細かく見ていき、最後にこれは「綺麗な花」であるという判断にたどりつく。こういう認知は「ボトムアップ方式」のインテリジェンスの形と言われています。
この人は、13歳くらいのころに知能検査でIQ値を測定したのだそうです。その際に、知能障害レベルと判定されたとのこと。「バナナとリンゴの似ているところは?」というような問題が難しかったのだそうです。モノの類似を問う質問だとすると、一般的な答えは「両方ともフルーツ」です。しかし、次のように考えていくのだそうです。
1:実の部分の色(が似ている)
2:水分を含んでいること
3:成長するために水が必要
4:皮がありむいて食べる
5:多分、種がある(バナナの黒い部分は種かも)
6:太陽があると元気になる
7:熟すると香りが変わる
というように、全部で19もの共通点をあげていました。これをやっていると時間がなくなってしまって問題を解くとこができないという状況が、結果として低いIQ値という診断に繋がったのだそうです。IQ診断の起源と是非についてはさておくとして。
こうした「部分からの認知を積み上げていくこと」で、全体をざっくり把握して次に次にと進めていく定型インテリジェンスには気づかないような世界の見え方をしているのだと思うのです。
ニューロダイバーシティは、アート思考にとても通ずる、認知のジャンプ、多様な視座へのジャンプを提供してくれるのかもしれません。
こうした異なる認知を擬似的にでも味わうことはできないだろうか、と思います。もちろん、ニューロダイバーシティとして多様な認知形態を持つ人たちとの協働も面白そうだと思うのですが、やっぱり自分で体験してみたい。
もしかすると瞑想などのトレーニングによって得られる知覚および認知の変容にも通ずるのかもしれません。テクノロジーによって、それらの疑似体験を誰もが得られるようになることで、異なる認知の人たちと、当たり前のように感覚を共有し、理解し合えるようになるのもしれません。豊かな認知の世界。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?