見出し画像

「わからないもの」と日本的身体 〜イノベーション(新結合)のための"出逢い"

(標題写真 photo by bozzo)

先日、COMEMOのアート×ビジネスイベントの第二回が開催されました。

今回は、「身体性」をキーワードに、僕が日本を代表する「身体のプロ」だと考えている、能楽師(という枠にはすでにおさまらない方ですが)の安田登さんと演劇家・藤原佳奈さんのお二人をお招きしました。

イベントの詳細は、公式レポートにくわしいのでこちら↓をご覧ください。

また、参加者の方からもnoteで感想をお書き頂いています。どれも質の高いレポートでだいぶイベントの空気が伝わると思いますので、ぜひご覧ください


「分かる」から「わからない」へ

今回のイベントの一つのテーマは「わからない」でした。僕がイベントのコンセプトとして「身体」を選んだのもそうなのですが、このキーワードはイベント中何度も登場しました。

当日も冒頭のイントロで、アナロジーとして話しましたが、ロジカル思考が「説明文」、デザイン思考が「コピーライティング」だとすると、アート思考は「詩」に似ているところがあります。説明文やコピーに比べると詩は「わからない」という人が多いかとおもうのですが、それは詩が通常の文法や意味の「正しさ」を逸脱しながら、一意でなくimplicitな意味の束をもつ多義的なものだからです。


1.「わからない」ものを捨象しない

ビジネスの現場、とくに企業では「わかる」ということが求められます。「君の話はわかんない」と言われると、それはほとんどの場合、決裁が通らない、ということを意味します。

わからなければ組織として共通理解も事前予測もできませんし再現性もないため、「わかる」が重要視されることは一見合理的的なことのように思えます

しかし、「分かる」という言葉が「分ける」から来ているように、論理やデータは体験そのものを分化して捉えるため、そのスキマで沢山の体験を捨象してしまいます。果たして虹は7色でしょうか?否、そもそも何色ということができるのでしょうか?

論理やデータを元にした意思決定は客観的なものにみえるかもしれませんが、データをどう解釈するかは実は常にデータを超えた「読み」のようなものによっています。「分かる」プロセスは捨象を伴い、その捨象を経て切り出された「ファクト」は原理的に不完全なので、「分かる」ばかりを強調しすぎると意思決定を誤ることとなります。


イベントでは安田さんから、能が650年間も続いてきた仕組みとして「伝統」と「初心」という仕掛けについてお話いただきました。それを聞いて、僕はこのように思いました。

世阿弥やべえ


「伝統」というのは、継承のための「マニュアル」なのですが、世阿弥パイセンのやばいのは、それが固定的なマニュアルにならないように、例えば発話されない「コミ」などに身体性や即興性が入る余白も残してある動的なシステムになっていることです。安田さんが実演をされ、上手く説明できないのですがすごかった。。。

(photo by bozzo)


また、演劇家として演出も手がける藤原さんは、参加者に架空の球を手に持ってもらう、というプチワークを。これも短時間ですが目に見えない、説明できない”なにか”を実感する機会となりました。

(photo by bozzo)


このワーク、一見みんなが同じ感覚を味わう「共感」実験のように思えるのですが、実はそうではありません。「わかりみが深い」というように「共感」もある種「わかる」ことなのですが、「珠の質感や重み」はそれぞれの想像力によって現れるので、その人その人で違ったはずで、お互いの体験はやはりわからないのです。体験というのは本来、多様で多義的であり、そしてその主体として「身体」がある。


2.「わかりやすくならない」という戦略

また、安田さんは能は戦略として、わかりやすくなろうとしないことを心がけてきた、と言います。わかりやすくウケると人はどんどんそれに慣れ、その方向でより多い刺激を求めていってしまいます。安田さんは「能はつまらない」と自ら言っちゃうわけですが、「わかりづらい」というのは実は大事なことです。

最近の日本は、「ハック」や「マーケティング」など、「わかりやすい方がよい」という傾向が強すぎる気がします。「わかりやすい」ことは短期的に効果が帰ってくるため評価や意思決定もしやすいわけですが、その結果として長期的には消費的なコンテンツばかりになってしまう。


3.「わからない」自分に「変わる」

そしてもう一つ、能が650年続いてきたもう一つの重要な工夫、それが「初心」です。「初心忘るべからず」という言葉は誰しも聞いたことがあるかとおもうのですが、これは「始めた時の新鮮な気持ちを思い出そうぜ」っていう感じとはちょっとちがうのだそうです。

「初」は「衣」を「刀」で切る、と書きます。これはそれまでの自分を切り捨てて全く新しい自分になる、という意味を持っている。

世阿弥のすごいのは「老後の初心」を言っていること。能を長らくやってきて重鎮、師匠クラスになっても、それに安住せず、能楽師たるもの過去の自分を「切り捨て」なければいけない。

これはかなり怖いことです。積み重ねがあればあるほど切るのは怖くなる。だからこそ、それをやらなければならない。こういう価値観を徹底して能は身体に染み込ませるのだそうです。努力や積み重ねが大事、と教えられ努力してきた人には辛いかもしれませんが、「さよなら、おっさん」や「人生再設計」は時代や世代を問わず自ら自分を切り、やらなければならないことなのです。

能自体も、過去大きな変化を4回してきているらしく、たとえば能の謡や舞のスピードは昔は3倍早かったらしく、江戸時代くらいに遅くなり、今の能に落ち着いたのだそう。(お弟子さんであるいとうせいこうさんと3倍速い能ってラップとかヒップホップダンスみたいだね、という話をしたというエピソードがあったのですが、まじで3倍能、観てみたいYO!)


「日本的身体」

イベントではちょっと時間がなくそこまでちゃんと話せなかったのですが、こういう、都度生まれ、捨てて生まれ変わるような感覚が、「日本的身体」だと考えています。

イベントでも安田さんが「西洋がperspective的なのに対し、東洋はwalkthrough的」、藤原さんも「西洋の演劇は俯瞰的」とか言っていたとおもうのですが、西洋では「神」が超越的な視座にあり、ユークリッド的な空間や同一のスピードで進むtの時間のように、西洋の身体は不変な枠組が常にすでに存在しています。超越論的にとかアプリオリに。

それに対し、日本的身体はもっと内的に生きられる。時間空間ごと一緒にたち現れる、という感じがあります。日本的身体にとって、客観的な空間や時間が予めあるのではなく、「空間」や「時間」は身体が生きることによって生まれるのです。「未来の自分」というのは現在が存在するのと同じ空間時間の延長にあるわけではなく、また新たな時間空間と生まれるのです。「電柱にあたった」ことは当たるまでわからないように、「初心」して新しくなるとき、生まれ変わった後のことは生まれ変わるまで「わからない」。

VUCAの時代と言われる今、ビジネスにおいてはPDCAの限界が言われてきていますが、イノベーションというのは本来、「初心」のように自分自身の拠って立つ地平ごと変化させてしまうため、予めplanできるようなものではありません。それは非連続であり、変化する前には変化した後のことはまったく予期できないし、変化してしまった後では「変化してしまった」としか言いようがない。

冒頭で↓のように述べましたが、

わからなければ組織として共通理解も事前予測もできませんし再現性もないため、「わかる」が重要視されることは一見合理的的なことのように思えます

実はイノベーションというのは本来、「共通理解」や「事前予測」、「再現性」を超えたところに生まれるのです。


最近、アートとイノベーションに関連して、「中動態」のことを調べているのですが、どちらも意図的・計画的に「なす」ことができるものではなく「なる」としか言えないような性質があると思っています。0→1のイノベーション、そしてアート思考について僕はよく妊娠・出産に例えるのですが、赤ちゃんが「授かりもの」と言われるように、イノベーションは起こそうと思って起こせるものではない。「見る」ではなく「見える」のように能動でも受動でもない展開がそこにはある。(中道態についてはまた別途書きたいと思います)


縁、勘、運と

ただ、では何もできることがないかというとそんなことはありません。100%計画的に妊娠をすることはできませんが、その機会を増やしたりタイミングを合わせることで赤ちゃんができる可能性を高めることはできます。

イノベーションに出会ったり、身ごもることは意思のとおりには出来ないけれど、その機会を増やす努力をすればよいのです。そして、そのためには「わからない」に立ち会い、それに触発されることが有効です。すでに述べたように「分かる」ことを重視しすぎてしまうと、既存の価値観や枠組みに囚われてしまうため、受胎の機会からむしろ遠くなってしまうからです。

「よくわからないもの」を切り捨てずにそこから触発される機会を増やすということ、そしてなるべくそれを体験できるモードでいる、ということが大事だと思っています。

それは未来からバックキャストしたりと「因」で考えるというより、「縁」のような(理屈を超えた)新しい結合の機会を大事にする、ということではないかと思います。「縁」とかいうと、非科学的でスピってる感じにきこえるかもしれませんが、よく考えてみれば事業や成功は「縁」から始まっていることがいかに多いことか。「縁」で異質なものとつながるからこそ自分が想像もできないようなものに到達できるのです。それこそ「新結合」ではないでしょうか。

安田さんがまさに運と縁と勘の研究をされているということなので楽しみです。語呂合わせ的なあれであれですが、「縁」「勘」「運」をまとめて「エンカウント」(出逢い)のイノベーション論みたいな感じのことができるのではとおもっています。



「アート思考」で僕がやりたいこと

イベント後の感想で、こういうご意見をいただきました。

負け惜しみとかでなく、この意見には完全に同意です。以前こちらの記事でも書いたのですが「アート思考」というのがややバズワード化しているところはたしかにあり、僕もそれを懸念しています。


「アートに教科書はない」とよくいっていますが、「アート」は「わからない」ものであり、フレームワークのように、こうすれば「アート思考」で新しい事業がつくれまっせ!もうかりまっせ!というものではありません。

そうではなく、「分かる」ということや「課題解決」への慣れから抜け出して、「わからないもの」や葛藤や衝動、そういうものに触発され向き合っていく中で価値観の軸そのものをずらすような、そういうモードへとあり方をシフトすることこそが「アート思考」だと思っています。

「そもそも儲かる事考えていていいの?」「スケールすることがイノベーションなの?」「そもそもイノベーションって必要なの?」などなど、もしかしたらアート思考に触発されるモードは、「軸」自体を問い直すような、そういうものかもしれません。


イベントのことを思い返すと、安田登さんの「初心」の時の切る所作が浮かびます。テキストでは共有が難しいのですが、ただのトークイベントではなくそういう言語外の「体験」の機会も、つくっていきたいと思っています。


---

さて、ここで次回のお知らせです。びっくりすることにGWに突入しているわけですが、連休明けの5/8、令和のイベントとなります。

次回ゲストに出て頂く藤幡正樹先生は、僕が「アート」と「ビジネス」が触発する機会をもっとつくりたい、と思うに至ったきっかけというか原体験をくれた方です。昨年、東京藝大での講義を聴講して衝撃を受け、ビジネスの人にも知ってもらう機会をつくりたい!!という想いから「アート」に関する発信をしてきたので、本当に楽しみです。今回に負けず劣らず本質的な話ができると思いますのでぜひおいでくださいませ!


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?