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「自走する授業」を組み立てる

1. 自走する学生

今朝、面白い記事がCOMEMOに投稿されていました。「自走する組織」というお話。その中で、筆者は以下のように書かれています。

一方、「自走する組織」は、一人ひとりが、自らやるべきことを決め、主体的に行動し、必要な成果を挙げなければいけないので、個々の人材は一定レベル以上の高さが求めらる組織といえます。また、マネージャーにとっては、本人に任せる幅が広い分、管理する時間が減る一方で、成果が読みづらいため実はマネジメントの難易度は上がります。

実は2年前から、関西大学の社会学部メディア専攻で担当している「フォトグラフィ実習」は、まさにこの形態の授業を行っています。教員は僕ともう一人の先生で、登録できる学生の上限は約20人。応募が多く選抜の形を取って学生を組織するので、「楽に単位取りたい」という学生はほとんどいません。そういう状況なので、2年前にこの授業を開始するとき、「学生の力を信じる」ことを前提にすることができました。

で、実際に初めてみたわけですが、一年目の最初だけは、我々教員二人にも読みきれないところがあったので、多少は口を出すところがあったのですけど、一年目の後半からは教員はほとんど何もしていません(いや、見えないところではちゃんと色々してますよちゃんと)。そうなると何が起こるか。学生が自分で考えて実習に必要な行動を取り始めるわけです。まさに「自走」です。

もちろん、ちゃんと仕掛けは置いておきます。授業開始にあたって、ある程度こちらの意図を伝えてあるTA(ティーチングアシスタント。授業の補助をしてくれる学生)を配置しておき、彼らが最初は積極的に動く姿を見せるようにしています。でも、授業を受けている学生からしたら、教員ではなく、彼らとせいぜい1年や2年しか歳の違わない、同じ「学生」が、何も言われないのに積極的に授業に関与する姿を見ると、教員が頭ごなしに言うよりもよっぽど「効く」わけです。こうして、TAの動きを見た受講生たちは、自らも動き出します。

その一例をあげましょう。フォトグラフィ実習は、その名の通り写真を大学の講義目線でやるものなので、機材はかなり高額です。一人に30万円を超えるフルサイズのボディを渡し、ほとんどプロが使う機材をそのまま授業でも使います。これの管理を毎回教員が自らやろうとすると、機材の準備や管理だけで膨大な時間が本来なら取られてしまう。

それを、最初の一回にしっかりと教えて以降は、学生たちは時折TAに助けてもらいながらも、自分で準備や管理をするようになります。時に何人かのすでにカメラを扱うことを知っている学生たちが率先して、まだ慣れていない学生たちに教えてやる。僕ら教員は、最後の「数合わせ」のところだけ管理をすればよく、授業中での機材準備や管理はほぼ学生たちの自主性によって行われるようになります。

もちろんリスクはあります、破損や紛失のリスク。でもそのリスクを取ってでも、学生たち自身が自分のやっていることに意識を向けなければ、この授業をやる意味がないと言うのが、我々教員の一致した見解なんですね。学生たちに、カメラや写真を通じて、「世界を自ら見る目」を養ってほしい、その最初の一歩が、機材の管理な訳です。

一時が万事とはこのこと。「先生は基本的なところを一度教えたら、ほとんど何もしないらしい」と知ると、20歳になりつつある学生は、未だ半分は子どもらしい部分を残しながら、すでに成熟しつつある「知性」を起動させます。それが発動した時、人間に「主体性」が生まれる。僕ら教員が、単に「写真」や「カメラ」だけではない成長に喜ぶのは、こういう瞬間です。

2. 自走する知性

面白いことに、この「カメラの管理を自分たちでやらなくてはいけない」という一番基本的な部分で主体性が芽生えた時、その後に続くカメラにまつわる全ての「学び」そのものもまた、自走し始めます。「教員は2度は教えてくれない」とわかると、一度目に教えるタイミングでの集中が強くなる。そしてその1度目に教えたことを、自ら実践していく。そもそもカメラをやりたい、写真を学びたい、という熱意のある学生ですから、そこにさらに主体性が加わると、恐ろしく伸びる子たちがいるわけです。

そこに最後の仕上げ、「自走し始めた学生たち」に、僕ら教員、会社で言うところの組織やセクションのリーダーしかやれないことをやる瞬間がやってきます。その実現の一つが、カメラレンズメーカーである株式会社タムロンとの産学連携の試みです。

この中でも書いたんですが、自ら考え始めた学生たちに、僕ら教員がしてやれることは一つ。学生の力だけではできない、最高の体験を準備してやること。つまり、これまで「大人」として、彼らより20年ほど長く生きてきた経験やコネを最大限発揮して、彼らがさらに自分の「知性」や「経験」を磨ける場所を準備してやることなんですね。教員はほとんど何も教えないけど、場を提供してやることによって、彼らは主体的に学びます。そしてわからなければ聞きに来るようになる。自らちゃんと学ぼうする意識が身についた学生は、「レポートの論題ってなんでしたっけ?」みたいな、授業中に50回くらい言った上に、すでに締め切り過ぎた話なんて聞きにきたりはしないわけです。「混合光下において、チェッカーシートもない場合、ホワイトバランスはどうすればいいですか?」みたいな、それほぼ仕事レベルですよ?と言う質問が飛んできたりします。そうしたら、僕らもちゃんと教えるというわけです。プロとして。

3. 自走する授業

こうなると、授業自体が極めてスリムになりますし、またリズムがよくなります。通常の授業だと、大学の教員は何くれとなく準備をしなくてはいけません。シラバスから、毎回の授業の後の宿題やら、レポートやらなんやらかんやら。授業中だって気を抜けたものではない。一度話したことでも、数回後にはだいたい学生は忘れているので、もう一度同じ話をしないといけない。一番できる学生に水準を合わせてしまうと、残りの学生は置いてけぼりになってしまう。そうやって、90分の授業時間のうち、およそ45分から50分は、ただの「準備と管理」で食い潰されてしまう。正味大学の授業として本当に使えるのは、せいぜい45分というところです。大学の一般的な授業は、だいたいそんなものだと思います。

でも、上に書いたように「準備と管理」を学生が主体的に行ってくれるところから始まれば、学生たちは自ずと基本を学ぶ姿勢が身に付きます。仮に覚えきれない学生がいたとしても、周りが意識的に助けようという意識がすでに根付いている。そうなると、毎回毎回同じことを教員の側が言う必要はないので、我々教員は、常に新しい試みを学生たちに提供することに、自分のリソースを全て注ぐことができるわけです。上で書いたタムロンとの産学連携の試みに加えて、例えば去年は、

仁和寺さんと東京カメラ部の連携プロジェクトに受講学生たちを呼んで、「文化財保護」と「写真」という、単に「写真撮って楽しい」以上の、メディアの持つ社会的文化的な観点を体験させることができました。(仁和寺さん、東京カメラ部のみなさん、その節はお世話になりました)

教員が持つリソースを、彼ら学生の経験の幅を広げることに特化すると、単に学生が自ら考えるだけではなく、思考に社会的な繋がりが生まれ、それがもたらすシナジーによる学びの経験は、今後社会に出たとき、彼ら世代が「自走する組織」や「自走する会社」を作っていく人材になっていくことが期待できるわけです。

4.  まとめ「自走する組織」の時代を前に、「自走する学生」「自走する授業」を目指したい、さらに

というわけで、4月からはいよいよ関西大学社会学部で開講している「フォトグラフィー実習」も5期目が始まります。3年目。今年はさらに我々担当教員は、学生たちに任せていく部分が増えそうです。これまでの経験から、学生を信じれば信じるほど、最終的に学生たちの出してくる成果物は、より鋭く仕上がっていることが、経験上明確になりつつあるからです。

さらにもう一つ面白いのは、「自ら考える学生」は、授業の長所も短所も最もよく見ている学生なので、時に「こう言う風にしたら良いんじゃないですか」とか「こう言うことをしてみたい」と、僕ら教員に意見を言ってくれることがあります。そう言う時、よっぽど現実的に無理な提案でもない限り、僕らはそれを即採用します。無理して採用しているわけではなく、我々の授業においては、学生こそが自分の所属する場を作っている主体であり、その目線から見える改善点や要求は、確実に授業をより良いものとして形成する要因になるからです。ほら、こんな学生が会社に入ってきて、プロジェクトに一人いると考えてみてください。ワクワクしませんか?僕がプロジェクトリーダーなら、嬉しくなっちゃいます。

こうやって「自走する学生」と「自走する授業」が作り上がった先に、「自走する組織」としての会社がどんどんと生まれてくる土壌が出来上がるんではないか、そんなふうに思っております。そして僕が今願うのは、そう言う学生、そう言う授業、そう言う会社、そう言う組織が日本の至る所で「自走」を始めた時、未来の日本は、今以上に力強く「自走」する機会を得るんじゃないか。そんなことをこっそり期待していたりもします。僕が大学をやめない理由です。

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別所隆弘
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