「時間を過ごす」から「何を生み出す」へ、仕事の定義が変わる
コロナ禍により、ホワイトカラーの働き方は、否応なく実験を強いられた。その結果、少し前までごく傍流の働き方だったリモート勤務も「やれば出来る」ことが分かり、疑ってもみなかった物理的なオフィスの意義が、問い直されている。
この変化の奥底を探ると、「労働」の概念が根本的に再定義されつつあることがわかる。時間と場所の制約が急になくなったことで、「どう時間を過ごすか」から、「どんな成果を上げるか」が、労働の価値を決める基準となる。
第二次産業革命後、工場労働者の働き方は、まさしく時間と場所の拘束を必要とした。一方、本来、時間や場所と関係なく働けるはずの知識経済に移行してからも、工場勤務の精神は色濃く残った。極言すれば「会社に行くこと」イコール「仕事をすること」と考えてはいなかったか?
同質性の高い日本社会で、この考え方は良くも悪くもホワイトカラーの働き方に大きな影響を与えた。よく言えば、仕事に「様式美」があり、組織の中で決まった手順を踏むことが重視される。マニュアル順守が成果の品質を標準化し、保証してくれる。
その反面、一生懸命動いている「見かけ」を作ることが重要となり、実は成果に疑義があったとしても「よく働く、愛い奴」が重用されることになりかねない。私は長く「雑巾がけ」は「下積み」と同義と思っていたが、企業人の知己によると、本当の意味は「頑張っている見かけを作ること」だという。
では、リモート勤務が市民権を得ると、何が起こるか?仕事がなくとも、上司が帰るまで居残るような、目に見える「頑張っています」アピールは意味を失い、実際に何を生み出すかが問われる。その結果、プラスとマイナスの影響が予想される。
まず、良い面では、これまで諸外国比較で低いと言われていた日本のホワイトカラー生産性が上がることが予想される。様式や体裁を気にするあまり、生産性の分母であるインプットに大きな無駄があるからこそ、生産性が低くなる。分子である成果につながることしかしないならば、生産性は上がるはずだ。
また、通勤や「雑巾がけ」の時間を圧縮することで、理論的には余剰時間が生み出され、副業や自分のしたい仕事をポートフォリオとして組み合わせることが可能になる。いままで、決まった時間と場所に自分を合わせていたのと反対に、自分の時間といたい場所に、やりたい仕事を当てはめることができる。これは、労働者にとって大きな自由度をもたらすだろう。
一方で、諸刃の剣となりえるのが、成果で測られることにより、働く人の優劣がはっきりすることだ。運動会の大玉送りや玉入れを想像してほしい。実際は大玉に手も届かず、玉入れは一つも入っていなくとも、にぎやかに走り回る子供は、微笑ましいとさえ言える。しかし、冷徹に成果で評価されれば、罰点がついてしまう。逆に、静かなスナイパーのように、(可愛くなくとも)正確な玉入れができる子供が評価されるのが、ポストコロナ・ホワイトカラーの世界だ。
この点は、もしかすると、課題となるかもしれない。職場においてムードメーカーは常にありがたいし、チームが気持ちよく働くための潤滑油になってくれる。もし団体の様式美がなくなることで、個人がばらばらに仕事をする機運が強くなれば、ギスギスした職場になる懸念がある。
また、自分がなぜ何を生み出すのか、これまで漠然としか考えてこなかった人にとっては、「会社に行くこと」イコール「仕事をすること」でなくなると、はたと困ることになる。急に自分の存在意義に不安を抱くこともあるだろう。
実は、成果重視の新しい枠組みで生き生きと働けるひとたちにとっても、問題はある。場所と時間の制約がなくなることで、仕事とそれ以外の境がなくなり、際限なく仕事をしてしまう―バーンアウトや精神衛生の課題が持ち上がるからだ。
このように、ホワイトカラーの「労働」概念が再定義されるとき、世の中の規範が変わる必要がある。時間と場所で縛る規制から、成果を重視しつつも労働が行き過ぎないようにガードレールを敷くやり方へ変わっていくだろう。フリーランス的な働き方がますます主流になるため、彼らの保護も欠かせない。
さらに、働く私たちにとって、「なぜ」働くのか、「何を」生み出すのかをみずから問い直す契機と言える。自分の付加価値を分かったうえで、自律した働き方ができてこそ、ポスト・コロナの幸せな労働者となるだろう。