ポエティック再考 (リテラルな閉塞社会のための)
アート思考絡みで色々ご依頼いただくことも増えてきましたが、アート界隈の人と話していて、特に気が合ったり作品が好きな人とは「ポエティック」という言葉を使って話す事が多いなあと最近良く思います。先日もある演劇作品をみて「ポエティック」ということをまた改めて思ったので今日は「ポエティック」について書きたいと思います。
「ポエティック」というのは「詩的」ということですが、詩に限らず、あるいは芸術に限らず、「ポエティックな人」とか「ポエティックなスタンス」とかってある。
先日の伊藤亜紗さんとのschooの講義のときに亜紗さんが紹介していた「ぽさ研」風にいうと、「詩っぽさ」みたいな感じでしょうか。
「ポエティック」と言う時、それがどういうような詩の「ぽさ」をもっているのかということを考えてみましょう。(そしてそれは「アート思考」のマインドセットにも通じると考えています)
僕は詩の形式的な特徴は、下記の3つだと考えています。
①語の組み合わせによる(semanticな)異化
②構文による(syntacticな)異化
③音による身体への作用
①語の組み合わせによる(semanticな)異化
日常生活をしていて、なかなか詩に触れる機会はないかもしれません。詩は難解なイメージもあります。それがなぜ難解と思えるかというと「これで意味合ってる?」と不安になるからなのですが、その不安の原因は、詩の語の使用が日常言語のそれとは異なっているからです。
詩は、通常使わない語の組み合わせをすることで、そこに新たな意味を立ち現せます。詩人とかではないのでちょっと例文があまりポエティックではないですが、たとえば
「その椅子の柔らかい座面」というのが日常言語だとした時、「その椅子の肉厚な舌」みたいな言い方をしたりということです。
前者の文のようにすっと意味がとおらずに、「椅子」と「肉厚な舌」という日常的にはくっつかない異質な言葉が衝突・内破して、「椅子」という語の意味には普通ないような、ぬめっと湿度のある質感が読む者の中に立ち現れます。
このような「正しくない意味の組み合わせ」による異化によって、日常の言葉を超えた”なにか”が立ち現れるのです。
②構文による(syntacticな)異化
また詩ではよく、構文としても日常的言語とは違った用いられ方をします。主語から述語までの「国語」的な正しさのある構文をバラバラに切ってコラージュでもするように組み直すのです。
また、詩によくみられるのが「繰り返し」で、同じ言葉を何度も何度もリフレインしたりします。これは③にも関わってくるところですが、注目してほしいのは、それが「意味を超えた作用」を持っているということです。
言語を意味伝達の手段と考えた場合、繰り返しは意味としては新しい情報はないので冗長でしかなく、そこになんらの価値も生まれないことになります。しかし、詩においてはその「意味のない繰り返し」が意味伝達を超えた効果を生むのです。通常では意味のための手段と考えられている言葉をその使役から開放する「シニフィアンの戯れ」とも言えるでしょうか。
このように、「正しくない構文」による異化によって、日常の言葉を超えた”なにか”が立ち現れるのです。
③音による身体への作用
詩の特徴といえば韻律です。五・七・五のような音のフォーマットやラップのように「韻を踏む」ことでリズムを作り出します。そしてこれは理屈を超えて身体に直接響くような作用を引き起こします。
またオノマトペと呼ばれる擬音語、擬態語が多いのも特徴です。これも記号としての言語の「意味」とはちがい、直接的に「音」として身体に響きます。
これは「分かる」とか「意味」を超えた作用で、どんなに合理主義のひとであっても、音楽を聞いて身体が自然に動いたり、鳥肌が立って涙が出たり、ある種の感情がずわっと自分のうちに立ち現れたりした経験があるはずです。
「詩っぽさ」は「余白」を生む
このような「詩っぽさ」は、詩や文学に限らず、絵画や建築や彫刻や映画など色々なジャンルのアートにも見られる性質であると思っています。(たとえばピカソの絵はポエティックですし、建築家・坂本一成氏の建築はまさにポエティックでした)。映画で言えばジョンキャメロンミッシェルやグザヴィエ・ドランとかポエティックだなあ。
ただ、アートにおいてもポエティックの度合は作品によって異なり、ポップソングやハリウッドのアクション映画のようにほとんど日常的な意味と構文で走り切るものもあります。こういう「ぽさ」を「ポエティック」と対置するとすれば、「リテラル(字義通りの)」ということができるでしょう。リテラルなものは「写実的に上手く書かれた絵」のようにわかりやすく、解釈もわかれないものです。
一方、ポエティックな作品は、先程挙げたような「正しくない」「意味を超えた」仕掛けにより、人によって異なる体験・解釈・評価を産み出します。
ここに「余白」が生まれます。和歌やお茶など、日本の文化には余白があるものがとても多いですが、リテラルであるよりは、茶器や花を「見立て」たりする時、そこに開いた「余白」は、受け手をして経験や身体など自分の中の”なにか”を引きずり出させ、その体験を能動的な体験とします。
「余白」のあるものに立ち会おうとする時、その体験は受動的な体験ではなく、能動的(あるいは中動態的)に創造力/想像力をもってその人なりの体験をつくりあげていくものとなります。
リテラルで閉塞的な社会
最近、企業の広告が炎上したり、本質的な内容に思いを馳せることなく断片的にRTをしたり、言葉尻を捕まえて叩いたり、という事が多く、文化に余白がないと感じます。(京都造形大学の事件やピエール瀧さんの件もありましたね)
ビジネスの現場でもエビデンスやデータ、ロジック偏重になり「ハック」や「ターゲティング」を繰り返すことで、売れるものがほとんど似たものになってしまっていたり、売れた原作の映画や続編ばかりがつくられたりして文化の幅が小さくなり、価値の確定した文化の「消費」が優位になっていると感じます。
「リテラル」はわかりやすく、単線的で確実、ブレがすくないためある意味では楽なものです。一方で、「ポエティック」なものは一見わかりづらく、無意味に見えたり、それを体験するにもエネルギーを使うものです。
今の日本は「リテラル」があまりに強くなり、その結果として閉塞的になってしまったのではないでしょうか。そしてデータドリヴンのリタゲやAIなどテクノロジーの力によってさらにそれが加速されてしまうかもしれない。
そんな時代だからこそ、余白のある「ポエティック」な人やもの、アートの存在やそれに立ち会うことがこれからますます重要になってくるのでは無いかと思っています。
「アート思考」もそうですが、こう書くとロジックはおわったとか、だめだといってるように思われることがあるのですが、僕は言葉の力は信じているし、「考える」ことの力も信じています。ただ一方で、言葉(は過去に構成された文節なので)からこぼれるものだったり、それで捉えられないものがあります。言葉や科学や技術、はとても強力なためにその中にとどまってしまう危険もあることを常に忘れず、そこからはみ出るものを切り捨てないように意識することも大事だなと。詩自体が言葉では言い表せないものを言葉をつかってなんとか表そうとする、という葛藤というか、せめぎあいの試みなのです。
そういうものとして、「ポエティック」という価値観がもっと普及したらいいなとおもいます。そうすると、もう少し社会に余白やあそびができるのではないか。アートだけでなく「詩っぽさ」は色んな所にあります。なんかちょっとよくわかんないんだけどじわっと価値観や視野を広げてくれるようなもの。
その服ポエティックじゃんとか、あそこのひれかつポエティックだよね、とかうちの課長ってポエティックでさとか、なんか水曜ってポエティックなのよねえとか。ポエティックなスタートアップと事業を作っていきたいなあ
とりあえずこれを最後まで読んでくれた方はポエティックな読者です。
そんなポエティックなみなさんに、ここでお知らせです。
日経新聞さん主催で下記のようなイベントを開催します。僕がファシリテーターと企画のプロデュースをしていまして、日本で有数の「ポエティック」なお二人だと思っている、能楽師の安田登さんと演劇家の藤原佳奈さんをお迎えしてトークします。(冒頭のリンクの演劇作品も藤原さんのものです。こないだ拝見して衝撃を受けたのでポエティックな体感をしたい方はぜひ!)