転勤は、個人にとっては、佳いものである。「必要なのか」と問われるような悪しきものではない
5年生に進学したとき、筆者は神戸の小学校に通っていました。
生徒会役員になり、幼いながら意気込みを感じていた矢先、担当教師と非常に折り合いが悪くなり、彼から個人攻撃を受けているような感覚が芽生えました。程なくして、生徒会会議が開催される日は登校できなくなりました。
しばらくして、クラスメイトに「生徒会会議から逃げている」と思われているのではないかと、普通の日の登校も怖くなりました。
そんな中、父が転勤の辞令をもらいました。浜松です。知己の官僚が地元で衆院選に出馬するので、その選挙戦サポートに、との臨時職務でした。
浜松の学校は、筆者を温かく迎えてくれました。
3ヶ月後、選挙戦は終わり、父は再度転勤の辞令をもらいました。今度は名古屋です。
浜松の先生とクラスメイトは、登校最終日の授業時間を全部使って、歌あり、劇アリの盛大な送別会を開いてくれました。筆者には全くのサプライズで、限られた登校時間の中、どのように筆者にわからない形で企画を進行させられたのか、今でも不思議です。その日の下校はクラスメイト全員が家まで送ってくれ、文字通り山のようなプレゼントをくれました。
神戸の生徒会に端を発していた、自信喪失や恐怖はすっかり癒え、筆者はまた名古屋の小学校で友人づくりを始めました。
こうして書いてみると、神戸ー浜松ー名古屋という2回の転校がなければ、生徒会に端を発した自信喪失やそれにともなう対人恐怖が回復するタイミングは、ずっと遅くなっていたように思います。転校に救われた、と言えるかもしれません。
ということで、今回のCOMEMOのお題はこちらです。
「転勤が必要か」という問いに対しては、以前のこのコラムで(1)オンラインコミュニケーションの限界(2)支社・支店の必要性(3)終身雇用との整合という(4)ESを重視する経営のトレンドの4点から
・転勤は、支社の存在、終身雇用制などの構造と関わっているので、簡単には無くならない、しかし、本人の意にそぐわない社命は、だんだんとなくなっていく
と結論づけていました。
この記事は企業視点で、制度としての転勤について論じたものでしたので、今回は個人視点での転勤の必要性について考えてみたいと思います。
上記の私の体験談は、事後的にみると転校できてよかったね、という話なのですが、当時の私の感じ方はそれとは著しく違っていました。
特に神戸ー浜松の転校は、普通であれば行き詰まった環境を変えられる絶好機と考えそうなものですが、当時の私は「親の都合で学校を変わらなければならないなんて」というひねくれた被害者感覚があり、非常に後ろ向きな気持ちでした。
浜松ー名古屋の時にも、転校に対する抵抗はあったにはあったのですが、神戸ー浜松の時は、それとは質が違ったほの暗い心理状態で、持てる気持ちの全てをネガティブさが占めていました。
人間はストレス過剰な状況になると、脳の中で現実吟味やエラーモニタリング、意識的な注意と思考、不適切な行動の抑制、感情の統制といった機能を司どる前頭葉の部位が劣位に、感情や危機回避・防御などを司どる扁桃体などの部位が優位になるそうです。
これは平たくいうと、後ろ向きに思考停止している状態であり、転校前神戸に在学していた筆者は、まさにそういう状態だったのではないかと思います。環境を変えた方がいいことにすら、考えが及ばない状態。
もう一つ、別のアングルから。
筆者の経験では、転職・異動などにより色々な苦労を積み重ねた後に成果を出した人は、成果を出したのみならず、えてして仕事人として大きな成長幅を見せるものです。
成長はラーニングカーブに沿って進むので、与えられた一つの環境の中での成長幅には限りがあります。環境が変わればその人を取り囲む人間関係、業務の種類、接する情報などの質が変わるので、それだけ学ベる事柄が眼前に現れる、という次第。
新しいこと取り組むときは、脳の中でドーパミンが放出され、その難易度が高いと、ドーパミンについでノルアドレナリンが分泌され、集中力とモチベーションが高まった状態になるのだそうです。
また、困難・ハードルをクリアした後に何かを達成した経験は、事後的にそれを想起することによって、ストレスマネジメントの資産になるとか。
こうしてみると新しい環境に身を置く、新しいことにチャレンジする、というのはいい事づくめに思われます。
自分自身を一歩引いて俯瞰・客観視する、いわゆるメタ認知が自在にできれば、こうしたことは自明となり、意識的に行えるようになるでしょう。しかし人間には、今置かれている状態を変えたくないという(=現状維持)バイアスがあり、それには相応のトレーニングが必要です。
ましてや思考停止状態になっていては、自身の殻に入り込んでしまい、自ら新しい環境に身を投じることは非常に難しい。
であるとすると、半ば強制的に環境を変える契機となる転勤は、個人にとって「良いこと」である、と言えるように思われます。
それに匹敵する変化を勤め人自らが作ることも出来ないわけではないので、「必要」とまでは言えませんが、少なくとも「本当に必要なのか」と問われるような悪いものではない、とも。
最後に。であるにもかかわらず、転勤が悪者扱いされるのは、それが勤務者自身による意思決定ではなく、会社から強制されるから、つまり当事者にオートノミー(自由・自律)がない状態での決定となるから、だと考えます。
しかし、そこで自由意志の欠落にばかり目が向き、ネガティブ・ストレスフルな気持ちに陥ると、下手をすれば神戸からの転校前の私のように思考停止状態になり、せっかくの成長機会が無駄になってしまいます。
ありきたりですが、転勤を成長に繋げていくためには、新しい環境に関心を持って、意欲的に取り組むことが大切である、ということを指摘し、今回は筆を置きます。