未来のアート人口を増やしたい 〜僕があえて『アート思考ドリル』という本を書いた理由
お疲れさまです。uni'que若宮です。
今年の4月に『ぐんぐん正解がわからなくなる!アート思考ドリル』という本を書いたのですが、先日うれしい反応をいただきました。
こうしてじわじわ読んでいただき、出版後しばらく経っても反応がもらえること自体がとてもありがたいのですが、こちらのツイートは特に、僕の本を読んで「アート×子育て」「子供の可能性がものすごく広がる」を感じていただけたのが最高にうれしかったので、今日は『アート思考ドリル』に秘めた想いについて改めて書いてみたいと思います。
子供にはアート思考が必要だ。
『アート思考ドリル』自体は「子供向け」の本ではないのですが、小学校高学年〜中学生くらいのお子さんをお持ちの方から特に反響をいただきます。
お話をうかがうと共通しているのが、もともとは子供向けに購入したわけではなく、大人が自分用に買った本をお子さんがなんとなく興味をもって読み、楽しんでワークを解いている、というケースです。出版社主催で『アート思考ドリル』のワークショップをこれまで何回か開催しているのですが、参加者の方から「実は子供も参加したいといって一緒に聞いてました」ということも結構あって、これは本当にうれしい。
というのも、親子で楽しんでいただける本に、というのがこの本のひとつの目標だったからです。
ピカソはこんな名言を残しています。
子供は誰でも芸術家だ。問題は、大人になっても芸術家でいられるかどうかだ。
しかしいまの日本では、子供も芸術家でいられるかどうかなかなか難しいようにも思えます。我が家にも小・中学生がいますが、学校の話を聞くと今も画一的な授業がされていたり「内申点」や「宿題」などが重視されていて、「自分なりの仕方で物事を見て・考えて・つくり出す」ための時間があまりないようなのです。
教育が変わるためには根本的にはテストや受験システムが変わらなければいけないと思っているのですが、その話は長くなるのでまた今度書くとして、ここで一番に言いたいのは「子供」が早い時期から「型」にはめられていってしまう、という問題です。
といっても「型」自体が悪いことではありません。以前↓の記事でも書きましたが、芸事の「守破離」のように「型」は自分らしさに出会っていくプロセスでもあるからです。
ただ、重要なのは「型」を身につけることはあくまで通過点でありプロセスだと忘れないこと。そのことが忘れられ、型を守るのが目的となったり小手先のコピーに堕してしまうと創造性は蓋をされてしまいます。
「守破離」においてもまずは「型を守る」わけですが、勘違いしてはならないのは、それはあくまで将来に「型を離れる」ためであり、それぞれのばらばらな可能性を引き出していくための手段であり過程にすぎないということです。それを忘れ「守」自体を目的化してしまったり、「二曲」を鍛える前に「似す」をしてしまうと、子供の可能性を減らしてしまうことになるのではないでしょうか。
親にもアート思考が必要だ。
ここでもう一つ重要な問題が出てきます。それは、「型」の呪縛に囚われているのは子供だけではなく、実はそれ以上に「親」だ、ということです。
ここ数年教育界の方々とも色々と話しているのですが、教育現場の方から「実は親が変化を望まない」という話を耳にすることがあります。現場の教育者が教育を変えようとすると親の反対に合うことが多いのだとか。
初等教育だけではなく、女子大など高等教育機関でも「親の価値観の呪縛」が教育のボトルネックになっていることがあります。子供は子供らしく、とか女性は女性らしく、とか「あるべき型」を押し付け創造性を阻んでいるのですが、むしろ親はそういう保守的な教育を望んでいる、というのです。
なぜかというと、親自身が自分の子供時代に、「型を守る」ことや「正解」を刷り込まれ(インプランティング)雛形として信じてしまっているために、教育に対する価値観が固定し、それ以外の価値観や新たな選択肢への柔軟性が低くなってしまっている。
しかし、学歴を含め今の子供達が大人になるころには「正解」を当てる能力はあまり役に立たなくなります。前世紀の「工場のパラダイム」では同じことを再現できたり「間違わない」能力が役に立ちましたが、正解のないVUCAの時代には、むしろ自分で正解をつくりだしていく能力こそが必要だからです。
ピカソのいうように「子供は誰でも芸術家だ」としても、教育によって早々に「型」にハメられてしまう。そして、自らが「型」のみに頼ってきた「親」が創造性のボトルネックになってしまっている。
(実はこうした事態は企業でもよくあります。企業でアート思考のセミナーやワークショップをお願いされることもあるのですが、若手の創造性を解放したとしても、旧来型組織では保守的な中間管理職がボトルネックとなり、それを潰してしまうのです)
なので、創造性を解放するには、入口(子供)と出口(親)の両方を変えないといけない。教育にまつわるこうした状況を変えたくて「親子がそれぞれ実践できるドリル」という形式をとったのです。(アート思考ドリルを購入しお子さんとも楽しんでらっしゃるご家庭は親がその事に気づき意識してらっしゃる印象があります)
必要な人に届けるための「擬態」
「アート思考」や「ドリル」というタイトルはあえてつけていますが、こうした批判をいただくこともあります。
この懸念、100%おっしゃる通りです。
僕自身同様の懸念をもっており、前著を出版社からお声がけをいただいた時、実は一度お断りをしています。「正解がない」「自分起点」の「アート思考」をメソッドやテキストにしてしまったら、受け身で読んでわかった気になり「似非アート思考」の人を増やしてしまうだけなのではないか?それはむしろアート思考を、アートを害しないか?前著の『ハウ・トゥ・アート・シンキング』の執筆中もずっとそんな危惧を抱いていました。
タイトルに「アート思考」を使うのすらあまりよくないのでは…と悩み、当時編集・白戸さんと装丁を手掛けてくださった寄藤文平さんに相談しました。すると文平さんが「いや、それならあえて擬態しましょうよ」と提案してくださったのです。
「本を読んでアート思考ができるようになりたいという人こそ読んでもらって、そういう価値観自体を揺らすべきですよね。だから、むしろこれさえ読めば分かる!っていう教科書みたいな装丁にして、読み進めるうちに分からなくなる、そういう沼にしちゃいません?」
このアドバイスがあったおかげで、迷いが晴れました。「アート思考」はメソッドに留まらないものだからこそ、あえてアートに縁遠い人に気軽に手にとってもらってもらえるように、わかりやすそうに「擬態」する。それまで「アート思考」という言葉を使う自体にも迷いがあったのですが、それも沼の入口に来てもらうために使っていこう、と決めました。
そういうわけで、前著は「ハウトゥ本」に、今度の本は「ドリル」に「擬態」することにしたのです。
アート界の閉塞を開いていきたい
「アート思考」という言葉がバズワード化したため、アート界隈の人たちからは「ビジネスがアートを食い物にするな」とか「素人がアートに口を出すな」といった冷ややかな態度を取られることもあります。
しかし僕は「アート思考」という言葉を使ってでも、より多くのひとがアートに触れる機会を増やしたいと思い活動しています。たとえば日経新聞と『アートシンキングの学校』という連続イベントも開催したのですが、これは「アート思考」というキーワードを掲げてビジネスセミナーに「擬態」し、アートを体験してもらう、という仕掛けです。冒頭少しだけレクチャーをした後、半ば強制的にアート作品やパフォーマンスを体験してもらいビジネスパーソンをぽかんとさせちゃう(笑)。ちょっとズルいかもしれませんが、実際にこれをきっかけにアートに興味を持ち、積極的にアートに触れるようになったという方がたくさんいます。
アート界の方の「よそものがあらすな」という気持ちはわかりますし、それはアートを大事に思うからこそだとも思います。しかし、アートはこのまま「内輪」のものでいいのでしょうか?流れのない水が淀んでしまうように、このままではアートの水脈は死んでしまうかもしれません。
多くの日本人が「アートはよくわからない」といいます。「アート」は小難しいものだと思われています。あえて批判的にいうと、アートを過保護にしすぎる「アート界隈の人たち」こそがこういった風潮をつくってしまっているのではないかとも思うのです。
アートについてなにか発言した人が、詳しい人達に「わかってないね」とうんちくマウンティングをされている光景をときどき目にします。「アートは正解がない」といっても「何でもあり」だとは僕はまったく思っていませんし、作品をより深く体験するために、美術史的な知識やコンテクストの理解も大事です。
しかしそれ以上に、まずはアートを楽しむことこそが重要ではないかと思うのです。
子供が草サッカーを始めた時に、プロのサッカー選手がその子のところにいって「そんなのはサッカーじゃない。サッカーっていうのはこうやるんだ」と言ってこてんぱんに負かせたら、その子はサッカーを続けたいと思うでしょうか?
もちろん、サッカーにも上手い下手はありますし、より高い技術を求めていくことは大事です。けれど「それはサッカーじゃない」とか「下手なひとはサッカーするな」とかいう必要はないでしょう。上手な人ほど、プロほど、さらにその先の楽しさを知っているはずなのですから、
「ね!サッカーって最高だよね!そしてもっと深い世界があるのだよふっふふ…」
という風に(少々ちがっていても、下手でも)楽しむ経験からはじめ徐々に深い沼にハマっていく手助けができるはずです。サッカー文化を広めていきたければ、「よそもの」と排除するよりもサッカー人口を増やすことが大事。そのためには裾野を広げることが必要です。
「アートがビジネスに役に立つ」と言おうものなら、アート界から多くの反発を受けます。しかし、スポーツ界の人たちがそんな小さなことを気にするでしょうか?「サッカーはビジネスに役に立つ」と言ったところで「食い物」と批判するどころか、それをきっかけにサッカーに興味を持ってもらえるのを喜ぶのがサッカーファンではないでしょうか。
そもそも、アートはそんなことで「食い物」になってしまうようなヤワなものではない、と僕は信じています。
アートで凝り固まった価値観をゆらそう
未来の創造性を増やすため、「型の呪縛」に陥りがちな「子供」と「親」の両方がアートに触れる機会を増やしたいと思って『アート思考ドリル』を書きました。アートに触れることが価値観の凝りをほぐしてくれる、そんなアートの力を信じるからです。
アートはビジネスに役立つか?アートはビジネスに必要か?
よく聞かれる問いですが、当たり前過ぎる愚問だと僕は思っています。アートに触れることはビジネスどころか生きることそのものに必要だからです。
オリンピックにまつわる諸々で、日本の価値観がいかに凝り固まっているかが露呈しました。
アートは、保守的になり変化を嫌うようになった凝り固まった価値観をゆらし、いつも見過ごしている価値に気づかせてくれます。そしてそれによって個人の、そして社会全体の創造性を高めるものです。そうした文化資源の水脈を枯らさず、受け継いでいくためにもまだまだアート人口の拡大が必要です。そしてサッカー人口が増え、プロリーグ化することで世界的なプレーヤーが生まれてきたように、アートに関心を持つ人が増えることはアート自体の底上げになるはずです。
そのためにはまず、「アート思考」という言葉や「擬態」を使ってでもアートの楽しみ方を知ってもらい、入口まで来てもらうことが必要です。アート界のみなさまに置かれましては子供や「初心者」を拒絶せずに温かく受け入れ、ぜひその先の沼へと導く手助けをしていただけたらうれしく思います。
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