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今更ながらわかった。アートは知性で見ると。

 この記事を読んで、震えがきた。
 
 僕は、アートというものに対する理解がなく、「教養がない」人間だと自分で思っていた。そしてアートに触れて理解したい、と思っていた。しかし、「感じるままでいい」と言われても、それはそうなのかもしれないけど、本当にそうなのかなと、もやもやする自分がいた。このことは、外に初めて言う。

 僕は今、54歳。本を何冊か出していて、また今年4月からは大学の仕事も始め、またインターネットラジオのVoicyでパーソナリティをしていることもあり、自分で言うのは大変恐縮だが、自分の言論を楽しみにしてくれている方がたくさんいてくれる。そういう、なんだろう、「文化人」的立ち位置に近いところにいると思われがちだ。

 その僕が、「アート、全くわかりません 涙」となったら、これはもう、相当恥ずかしい(ような気がする)。だから、これまで外には言えなかった。

 でも、この記事を見て、自分の疑問は氷解した。アートには、土台として学ぶべき要素はあるのだと。知性で見るのだと。ルールがあるのだと。

 だよな。まさに、それを感じていたのだと。自分の感覚は正しかったのだと。だとしたら、「微分積分」がアートだとしたら、そのための「四則演算」を学ぼうと。すっきりとした。

 だから恥を忍んで、僕は言う。僕は、そのルールを知らなかったんだ。全く知らずに、微分積分を、「感性」で解こうとする課題を、全く楽しいと思えず、だから四則演算を学ぼうともせず、54歳まで年を重ねていったのだなと。

 これを外に言うのは、教養がないことを開示するわけだから恥ずかしいが、でも、おそらくそんな風に思っている方も多いはずだ。だから、そういう方に僕は言いたい。この記事を読もうと。

 では「四則演算」的ルール、知性を知らなければ、あらゆるアートが理解できないのか、というと、決してそうなのではないところもある。それがあるから「感性だけでよいのだ」と言うところを、否定できずにいた。

 「無教養」の僕でも、実はここ1年で2枚の絵画を購入して、自分のオフィスに飾っている。この2枚には、電流が走るほどの感動があったからだ。実は、僕の心の友が手掛けた作品だったからだ。

 友人だから感動した、のではない。そうだとしたら、その友人であるアーティストが描いたものはみんな感動するはずだ。違うのだ。では何に感動したのか。

 その友とは、生きるとは何か、働くとは何か、ことをなすとはなにか、そういう価値観を、かなり共有している。その友がある想いをもってある作品を描いた。そこはおそらく、自分の価値観と共有している部分だろう。自分とかなり価値観を共有していることを知っているその彼が描いたこの絵の「ルール」は、語らずとも、学ばずとも、認識できた、ということなのだ、と思う。だからそのルールの上で描かれた世界を僕は理解し、共感し、受け入れることができたのだ。そういう、「補助線」があったのだ。

 それは、価値観を共有している友だから理解できるのだ。そして僕は、ピカソもモネも、価値観を知らない。だから、出てきたものだけを見ても、何もわからない、ということだ。言い換えれば、Why?を知らずにアウトプットだけ聞いても、プレゼンの意図が理解できないのと同じことだ。

 繰り返し言おう。この記事は震えがきた。ひょっとしたら、「そうそう、そうでしょうに」と思われる方もいるかと思うが、僕と同じ「ノリ」の方は、何度も読んで欲しい。そして日本人がこの感覚を理解したら、国際社会における「日本人の教養の度合いランキング」が上がっていくような、そんな気さえする。

 この記事に出会ってよかった。自分の中で何かが変わる気がする。


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