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「心の貧乏人」になっていないか

アフリカ開発会議(TICAD)が横浜で開催された。不思議なめぐりあわせではじめてアフリカに行く機会を得てから1か月も経たないうちのことで、アフリカが自分の中でリアリティを感じる場所になってきた。

今回のTICADをきっかけに日本で再会を果たしたアフリカ人もいて、まだまだ少ないけれど、アフリカ人との交流もうまれつつある。

そんな交流や、まだ新しいアフリカ訪問の記憶から感じることは、単純に遅れているとか進んでいるとかのモノサシでは測れない、日本社会や日本人との違いだ。

日本に戻って様々なニュースを見ていて、あるいは身近なところで起きているものごとを通じて、その根底にある違いが、心の余裕・豊かさ、あるいはおおらかさではないか、と思うようになった。

たとえば。最低賃金に近いような時給のバイト、いわゆる”マックジョブ”をめぐって、自分の仕事ぶりと同僚のそれを比較し、同僚の仕事のあらさがしをして批判することで自分の仕事ぶりの完璧さをアピールし、自分は損をしていると不平を言った挙句に欠勤する、という人をみかけた。

本人も不満で面白くないのだろうが、周囲の全員が不愉快な思いをする。たとえば、仕事中にトイレに行くことを「サボっている」などと批判されたら、誰も身動きが取れなくなってしまう。

この人は、仕事は一定のレベルでちゃんとするまじめな人なのだが、他人との細かい比較をして自分の優位を確認し、自分が損をしているという被害者意識を募らせ、それが爆発したようだ。問題なのは、言われていない仕事にも手をつけ、それだけならいいのだが、そういう「おまけ」の仕事をしない他の同僚を非難するところ。

マックジョブにすら勤勉に真面目に取り組むことは日本人の美徳ではあるのだろうけれど、行き過ぎれば窮屈なものとなり、さらには他人との優劣比較となれば、働き手が自ら作り出すブラック職場になりかねない。

こういう人がいると、その集団全体が「心の貧乏」に感染してしまう。批判した人だって雨の日に2分遅刻したじゃないか、といったような、どうでもよいような些末な反論を呼ぶことになる。

不愉快な思いをするだけでなく、人命すら失われてしまうような事件も起きた。これも細かい事情は異なるが、心の貧しさ、余裕のなさに起因するものではないかと思った。

アフリカの人がそうでないと断言はできないが、一般的に日本よりも日々の生活環境が整っていない分、細かいことを気にしない気持ちでないとやり過ごせないこともあるからだろうか、気持ちの余裕、おおらかさがあるように感じるのだ。もちろん、彼の地でも同様の問題が起きることはあるけれど、仕事もなければ金も食べ物もろくにない、という状況と、今の日本の一般的な状況は決して同列には語れない。

いいところばかりではないかもしれないけれど、アフリカの人たちは概して、目先の細かいことを気にするよりも、将来起こりうるポジティブな未来に興味を示し、そのためには、自分が動くこと・変化することにも柔軟なのではないか。それが私利私欲的な方向に行くこともなくはないのだろうけれど、小さな集団の中で小さなことを気にするよりも、もう少し大きな夢を見ているような気がする。

そう思うのは、アフリカやアフリカ人に対して私が「かぶれ」ているからかもしれないけれど、彼らとの比較を抜きにしても、前に進む力を失い、淀んだ空気の中で細かい足の引っ張り合いをしているような日本であってはいけないと思うのだ。

同じ姿勢をとり続けていると凝ってしまう。健康に支障を来す。こころのもちようも同じ。凝り固まっている人は、本人にとっては不健康な状態。凝っていることに自覚がなくなっているのではないだろうか。

夏休みの残りも少なくなったけれど、時には休んで視点を変えて、凝りをほぐしたい。

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