これからの人間関係は「目的ありき」になっていく。
かれこれ15年、本業は若者研究をしている。
別に今流行りのZ世代にだけ注目しているわけではなく、その前のミレニアル世代だったり、ゆとり世代も研究していた。
若者を定点観測していると「少し先の未来」が見えてくる。それが研究の目的だ。
いわゆる定量調査(アンケート)や定性調査(インタビュー)もするが、ちょっとユニークな研究手法の1つに未来予測レポートというものがある。
このレポートはツギクルレポートと呼ばれ、
・自分の身の回りで起こっている事象から
・少し先の未来では
・当たり前になっているかもしれない現象
を、1枚のレポートにするという内容だ。月に1回、現役大学生20〜30人がから提出される。
今日はこのレポートから、これからの人間関係やパートナーシップについて考えてみたい。
キーワードは「目的ありき」だ。
■もう「いつメン」とは会わない。
昨年実施したレポートの1つに、こんなものがあった。
テーマを「次に来る友達のカタチ」として出題したものだ。
ジャストインタイムとは、トヨタ生産方式の1つで、生産現場において「必要なものを、必要なときに、必要な分だけ」供給する仕組みのこと。
それが友人関係でも当たり前になっていく(かもしれない)という内容だった。
このレポートを読んで、研究メンバーたちの頭には、とある失われていくシーンが浮かんだ。
こんな光景だ。
放課後、
・いつもの場所で
・いつものメンバー
が集まって、何をして遊ぶかを決める。
そんな「ドラえもん」でよく観たような友人関係は失われていくのかもしれない。
いわゆる「いつメン(いつものメンバー)の時代」は、いつものメンバーと会うことが目的だった。
だから「いつもの場所で集合な!」で済んだし、「何をするか」はあくまでもサブの目的でしかなかった。
しかし冒頭のレポートによると、
・SNSで数百人の友達といつでもつながっていて、
・その数百人の趣味趣向がタグづけされている状態
がデフォルト設定になった今、そうはいかなくなった。
つまり「会うには目的が必要」で目的がなければ会わないのが当たり前になっていく、ということだ。
この人間関係の変化は、これからの私たちにどんな影響を与えるだろう。
例えばパートナーシップに置き換えて考えてみる。
■恋人も「目的ありき」になっていく
これは持論だが、友人関係で起こったことは近い将来、恋人関係でも同様の事象が起こる。
と言うか、既に起こっている気もする。
友人の例を、恋人関係に置き換えてみよう。
かつては「恋人と会うこと」が目的だった。だからデートで何をするかなんて、サブの目的でよかった。
しかし
・SNSで数百人の友達といつでもつながっていて、
・その数百人の趣味趣向がタグづけされている状態
さらには
・世界がコンテンツで溢れている状態
では、そうはいかない。
例えば「観たいアニメ映画(コンテンツ)」があったとして、
・自分のスマホには
・同じアニメを好きな友人たちが
・今暇かどうか可視化されている状態
が、デフォルト設定だとする。
「何をするか?」という目的(コンテンツ)が優先される時代、恋人と会うという優先順位はどんどんと下がっていくだろう。
「若者の恋愛離れ」なんて言われて随分経つが、その間に若者に近づいたのは「コンテンツ」だ。
無料や安価で楽しめる動画やゲーム、イベントやお店などのコンテンツが圧倒的に増えた時代。「どう時間を過ごすか?」という趣味の選択肢だけは豊かになっている。
もう土管しかない空き地に集まって「今日何して遊ぶ?」なんて言っている暇はないのだ。
■「結婚ありき」の恋人関係
最後に、そんな現在の恋愛関係で「目的意識によって人が動く事象」についても考えてみたい。
つまりは「結婚する」という目的だ。
先ほどの例で言えば、メインの目的が結婚であった場合、ということになる。
友人関係を変えたきっかけは、
・SNSで数百人の友達といつでもつながっていて、
・その数百人の趣味趣向がタグづけされている状態
がデフォルト設定になったこと、だったが結婚に関しても同じ。マッチングアプリの普及がそれだ。サービスに登録さえすれば、
・数百人の結婚相手候補といつでもつながっていて、
・その数百人の趣味趣向がタグづけされている状態
が突然誕生する。
あとはその時々で最適なメンバーと会って、話を進めればいい。
とても効率的だが、最近はそのやりとりすら面倒で「自分の趣味の時間を削られたくない」と逆に結婚相談所を活用するケースも出てきた。
こうして人間関係の初手はまずます「目的ありき」になっていくだろう。
■奇跡と効率のバランス
僕は人間関係が「目的ありき」になっていくことを、悪いことだとは思っていない。
何より効率的だし、選択肢が増えることはいいことだ。
人間関係の役割分担、という意味では自分自身の恋愛感にも近い気がする。
ただこうした価値観の潮目ではいつも、得られるモノと失われるモノについて考える必要がある。
例えば従来の恋愛観ではこんなセリフがあった。
「こんな広い世界で、あなたと出会えて結婚するなんて奇跡だよね」
確かに、効率的に出会えなかった時代はそうだった。
例えば、クラスの転校生と恋をして、一世一代の勝負で告白をして、プロポーズをする。
そんな恋愛からはじまった結婚を「奇跡」と読んで、ロマンティックに昇華していた。
しかし今、それは「奇跡」ではない。
広い世界は可視化されているし、他者と比較検討をして、盲目的にならずに選択をすることができる。
便利な世の中になった。
言い方を変えれば、目的を達成しやすい世界になった、と言えるのかもしれない。
ただその分「奇跡」と感じられる機会は失われている。
もちろん従来の「奇跡だ!」という発想は、「実際に奇跡か(確率として希少性があるか)」よりも、「奇跡だ(と、思いたい)」というニュアンスの方が強かった気がする。
「選択肢が少なさ」を見て見ないフリをするために「奇跡」という表現で誤魔化していた。
ただ、その発想で成立していたのなら、私たちの中には「効率と奇跡」の両方に対する欲求が刷り込まれている、ということだ。
これから人間関係がより効率的になって、目的ありきになっていくとしたら
「奇跡を感じたい、という欲求」
を何で補完するのか。
そんなことも、今から考えておく必要があるのかもしれない。