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「SNSの向こう側」を示す、プロセスエコノミーとオンラインコミュニティの親和性

いくつかの全く関係なさそうに見える事象の一つ一つが、実は大きな流れを形成する一つ一つの「支流」だったということは、後になってわかるということは時折あります。

現在、後から見返したときに「あの時大きな流れが出来始めてたんだね」と思い返すことになりそうな物事が起こりつつあると思ってます。その一つの表れが、サークルやサロンという形態で可視化されつつある、「コミュニティの模索」ではないかと。今日はそのことについてお話ししようかなと。先に結論を書いておきますね。

プロセスエコノミーという形で現れている「制作過程」や「物語」共有への指向は、2010年代に進んだあらゆるもののコモディティ化への抵抗の試みの第一歩であり、その一つの具体的手段が「オンラインコミュニティ」である。

これが今日の結論です。ではなぜそういう話になるのか、以下から具体的に話していきたいと思います。

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(1)全領域的コモディティ化と、プロセスエコノミーの提唱

いくつかのキーワードをあげてみます。インターネット、SNS、5G、コモディティ化、コロナ、アフターコロナ、テレワーク、プロセスエコノミー。これらのキーワードは、この数年の間におそらくは何度も言及された言葉たちであるように思うのですが、これらのキーワードは、大きく分けると「人間の断片化」と「それに抗うための人間の集団化」という二つの力場が、いろいろな分野で形をとったものだと考えられます。コロナ前までに急速に進んでいたのは、インターネットとSNSによる、あらゆる分野における「コモディティ化」でした。今年の冒頭に、僕は表現分野と、そして人間そのものに引き起こされる「コモディティ化」について記事にしたことがあります。

この二つ目の記事の最後に、僕はこんな風に書きました。

20世紀の冒頭、ヴァージニア・ウルフが言った「自分だけの部屋」を、心の中に持つこと。なんでも簡単につながってしまうSNSが世界の隅々まで遍在する状況になったからこそ、そこから切り離された、自分の世界が必要なんです。

そこからさらに、物事は変化しつつあるように感じています。つまり、コロナからアフターコロナが見え始めている2021年10月現在において、単に「自分だけの部屋」だけでは済まなくなっているんじゃないかということです。そして現在注目され始めているのは「プロセスエコノミー」という流れです。皆さんもこの言葉を目にされたことはあるかと思いますが、元々はアル株式会社のけんすうさんが、2020年の年末に作られた言葉で、この記事がいわば「プロセスエコノミー宣言」として、今後何度も参照される記事だろうと思います。

この中でけんすうさんが指摘されていることは、これまでのエコノミーの基本的な形態である「アウトプットエコノミー」に限界点が見え始めているということでした。これはまさしくそうで、あらゆる情報が超高速で伝達されるようになった結果、アウトプットとして出てくる製品のほぼ全てが「似た水準の高品質」で溢れかえるようになりました。例えば僕のいるカメラ業界では、一昔前だと中国の製品は信頼できないなんて言ってたんですが、今では三脚やフィルターなど細かな領域に至るまで、業界トップの製品に肉薄する高品質の製品が次々に安価で売り出される状況です。このことはおそらくカメラのみならず、経済の全領域で起こっているであろうことが推察されます。それはすなわち、アウトプットの「コモディティ化」が完了したということです。2020年代は、もはや製品の技術的優位性で企業がある領域に君臨することが不可能な時代となるでしょう。だからこそ、ドミノピザのような、コモディティの象徴のような宅配ピザの筆頭会社でさえ、「プロセス」を大々的に打ち出すようになりました。

このような状況においては、けんすうさんが指摘されているように「プロセス」で違いを作っていくしかないというのは、極めて理にかなっています。「アウトプットの差がなくなったことで、価値を出すならプロセス、という感じになっている」(上記のけんすうさんの記事より引用)というのが、2021年現在における経済の流れの一つです。

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(2)コモディティへの抵抗としてのオンラインコミュニティ

このように全領域がコモディティ化している状況において、僕がいるクリエイティブ界隈では、興味深い傾向が見え始めています。それがオンラインコミュニティの増加です。僕自身も先月一つ自分のサロンを立ち上げたのですが、これまではSNSにおいて個々の瞬発力で存在感を発揮していたクリエイターたちが、SNS領域から、コミュニティ領域へと少しずつ活動の力点を分散させていってるのです。この根底にあるのは、もちろん「コモディティ化」です。「表現」さえも、今、SNSを通じた強烈なコモディティ化の暴風に晒されている状況なんです。

どんなに珍しい被写体も、SNSに発表されるや否や、すぐに同じ被写体の同じクオリティの写真が並ぶことになり、かつてだったら10年かかってようやく習得するような技術の全ても、少し調べればすぐに身につけることができる。ほとんどの技術はYoutubeを検索すれば、1日で習得できるようになりました。写真という芸術は、音楽や絵画に比べて技能的側面が習得しやすいので、今の20代から30代のフォトグラファーたちの中には、写真や動画を初めてわずか1年ほどで、業界の最先端を走っているクリエイターたちと、ほぼ同じ程度の技術を身につけることができます。こうなると技術の卓越による差異化は、ほとんど意味をなさなくなり、「誰を選んでもある程度以上の品質が期待できる」ならば、より安く実現してくれるクリエイターが選ばれ、その結果クリエイティブ業界全体が買い叩かれる運命に陥ります。

また表現技術のみならず、例えばSNSにおけるインフルエンスの増加もかつてと比べ物にならないくらいに速くなりました。その結果、今やクリエイター業界はインフルエンサーだらけです。そうなると、一人のクリエイターの持っているインフルエンスは、相対的に価値が下落します。全体の数がインフレーションを起こしているので、個々の存在の価値はむしろ逆にデフレーションを起こしている状態なんです。そう、ここでも「コモディティ化」が起こっているわけです。Aというクリエイター/インフルエンサーである必然性などは、実はもうほとんどオンライン上では残っていません

こうなってくると、やはりけんすうさんのいうように「プロセスを見せることで差異化する」という戦略は、必然的にこれから必要になってくる気がします。

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(3)プロセスを見せることの難しさ

ところが、問題は、実はこの「プロセスを見せる」ための方法が、意外と難しいということなんです。というのは、この「プロセス」という考え方と相性が悪いのがSNSなんです。その理由は二つあります。

1つは、プロセスという行為が時間的に長いということ。瞬間最大風速的な影響力によって情報を拡散するSNSにおいては、プロセスを見せるという「まだるっこしさ」と極めて相性が悪い。Twitterでバズるのは、極めてローコンテクストで瞬間的に全ての意味を把握できるようなものが大半です。一瞬で見て面白かったり、美しかったりするものが、情報として駆け抜けていく。長くて、ゆっくりしていて、まだるっこしい「プロセス」を流通させるのは難しい

2つ目の理由は、1つ目と同じプロセスを見せるために必要な時間の長さという意味では同じなんですが、今度は潜在的なリスクの大きさが問題になってきます。

プロセスというのは、何らかのアウトプットに至る前のある程度継続的な期間を見せることになるわけですが、アウトプットの形で綺麗にまとめられる前のクリエティブでは見えてこない、現場での行為の全てが「プロセス」の中には潜んでいます。例えば文筆家が自分が書いている途中の文章を見せるような行為をしているとき、たまたま少し筆が滑って過激なことを書いたとします。本来でしたら、その部分はアウトプットで製品になる前に削られて無くなっていくはずの部分が、プロセスを生配信などで見せていると、見ている人間の中に悪意を持った人がいれば、その部分の記録が表に出るかもしれません。写真だったら、無意識に「入ってはいけない場所」に踏み込んでしまうシーンが「プロセス」を見せている途中に出てくるかもしれませんし、映画の制作の過程で人間同士の衝突があったとして、それがパワハラとかセクハラのように捉えられるかもしれません。プロセスが本来持っている豊かで多面的な文脈が一瞬で剥ぎ取られて、一部だけが切り取り曲解されてSNSへと晒しあげられる、そんなリスクと隣り合わせなのが「プロセスを見せる」という行為の難しいところです。

このように、「プロセスを見せる」という行為は、実は難しい。「プロセスエコノミー」を提起したけんすうさんも、簡単にはプロセスエコノミーが大きなトレンドになっていくというふうには書かれていませんでした。

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(4)「プロセスや物語にレバレッジをかけることができるメディア」

ところが、この流れが徐々に、別の文脈との兼ね合いで見え始めてきたように感じる、というのが今日の記事でお伝えしたいことなんです。それこそが、すでに上に書いた「オンラインコミュニティの増加」です。具体的にはサロンやサークルといった、一人あるいは数人のインフルエンサーやクリエイターたちが、有料無料を問わず「少人数クリエイターコミュニティ」を作る傾向が、この数年、特にコロナ禍で増えているように思います。その根底にあるのは、「コモディティへの抵抗」と「SNSの向こう側」を見据えた動きであり、その実践的な身振りは「プロセスエコノミー」に酷似してくるんです。しかも、上にあげた「プロセスエコノミーの難しさ」を回避できるような機序が、こうしたオンラインコミュニティには存在するのです。

実はこうしたことは、すでに数年前に瀧本哲史さんが、著書『君に友だちはいらない』で書かれていることでした。世界のコモディティ化から、その後の、コミュニティ形成ブームまでの未来予測は、恐ろしいほどに現在の状況を見抜いていて、早逝が悔やまれますが、この本の中で瀧本さんが何度も何度も書くのは「本物の資本主義の残酷さ」でした。その残酷さを2010年代の初期に見抜いたからこそ、一人の人間では絶対にこの残酷さに抗えないこと、そしてそれに備えて「本物のチーム作り」を始めることを書いています。

そう、この「コモディティの嵐」の中では、チームやコミュニティを作ることで、個人では飲み込まれてしまう状況に対して防波堤を気づかなくてはいけないんですね。ですがこれではまだ、「コミュニティ」や「チーム」といったものが、どうして「プロセス」あるいは「物語」といった、まだるっこしさい存在を流通させうるのかの説明にはなっていません。そこで、もう一冊の本から引用をします。今年の前半にベストセラーになった、その名も『プロセスエコノミー』という本です。この中で著者の尾原氏は、オバマ大統領がいかにしてアメリカ合衆国の人々を惹きつけていったかという点について、こんなふうに書いています。

「一人のリーダのアウトプットによって社会変革がいきなり起きるわけではありません。一人が100歩前進するのではなく、プロセスを共有した仲間100人が一歩ずつ前進する」(下記の本より引用)

これです。これこそが、今おそらくコミュニティが必要とされ、プロセスや物語を共有するために必要になってきた状況の核心にあるものです。

つまり、なんらかのプロセスや物語を、いきなり一人のインフルエンサーが流通させられるような状況は、今のSNSにはないんです。ですが、自分を信頼してくれる仲間や、自分に好意を持ってくれているファンの方に、自分のプロセスをコミュニティ内で伝えたとき、例えばそのコミュニティの100人もまた、各々の人生と人間関係の網の目を持っていて、その彼らが自分の伝えた物語を持って一歩を進んでくれれば、自分一人では進めえなかった歩数を、100人が100歩進めてくれるんです。もっとリアリスティックで資本主義的な言い方をするならば、コミュニティとは、「プロセスや物語にレバレッジをかけることができるメディア」だということです。

これが、今の状況において、SNSという荒波の向こうに進んでいくために、クリエイターたちやインフルエンサーが見出しつつある答えの核心だと考えられます。

(5)僕らの人生をコモディティにしてはいけない

このとき、コミュニティというのは、先にあげた「プロセスエコノミーの二つの難しさ」をカバーするための機能をその内側に抱えています。オンラインコミュニティの多くは、一人ないしは複数人の主催者が核となって、その主催者のファンだったり仲間だったりと一緒に小さな集団を作っています。基本的に好意によって繋がっているので、プロセスや物語といったまだるっこしくて伝達に時間がかかるものでも、継続的にみてくれる場が整っています。また同時に、そのような好意によって形成されている集団なので、悪意的に一部を切り取って、SNS上で魔女狩りのように祭り上げるような、そういうきっかけが極めて少なくなります

こうして、2010年代に生まれたインターネット&SNS的な文脈というのは、徐々にその内側を「コモディティの嵐」によって食い荒らされてきたのですが、2020年代は「SNSの向こう」を探す10年になるはずです。それは図らずもコロナによって推力を得た傾向の一つです。

僕らはこの2年で、ずっと人に会えないからこそ、仲間や友達の大切さを改めて知りました。SNSで「いいね」を押すだけでもなんとか耐えられていたコロナ前の世界とは違って、やはり人には会わねばならないし、美味しいものはみているだけでは楽しくないし、美しい風景はその場所まで行って自分の目で見なければならないことを我々はコロナによって知りました。つまり、コモディティにはなりえないものこそが、僕らの命であり、人生なんです。それを模索していくのが2020年代になるはずですし、オンラインコミュニティはその最初の表れの一つだろうというのが、今日のお話でした。

長い文章を読んでくださった皆さん、ありがとうございます。

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別所隆弘
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