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「自分リテラシー」の提案

2000年代になって、あらゆるリテラシーが提唱されてきました。ところでそもそも「リテラシー」とはなんなのか。こういう時大変お世話になるウィキペディアの引用を見てみますね。

リテラシー(英: literacy)とは、原義では「読解記述力」を指し、転じて現代では「(何らかのカタチで表現されたものを)適切に理解・解釈・分析し、改めて記述・表現する」という意味に使われるようになり(後述)、日本語の「識字率」と同じ意味で用いられている。 ちなみに、古典的には「書き言葉を正しく読んだり書いたりできる能力」と言う限定的に用いられる時代もあった。(下記URLより引用)

そう、元々は「読解記述力」という意味だったリテラシーは、現代では「(何らかのカタチで表現されたものを)適切に理解・解釈・分析し、改めて記述・表現する」能力を意味するようになりました。一言にまとめると、あらゆる情報に対するインプット・アウトプットの能力を一括した単語です。そしてこの「リテラシー」という単語の頭に、他のいろんな単語がつくことで、その「情報」がなんであるのかが区分けされます。同じウィキのページから引用する「現代のリテラシー」一覧が、下記のようなものです。

メディア・リテラシー(Media literacy)
ネット・リテラシー(英語版)(Net Literacy)
デジタル・リテラシー(英語版)(Digital literacy)
コンピューター・リテラシー(Computer (Digital) literacy)
情報リテラシー(Information literacy)
ICTリテラシー(Information and Communication Technology)[2][3]
視覚リテラシー(英語版)(Visual literacy)
ヘルス・リテラシー(Health literacy)
精神リテラシー(英語版)(Mental literacy)
金融リテラシー(英語版)(Financial literacy)
科学リテラシー(Scientific literacy)
マルチメディア・リテラシー(Multimedia literacy)
統計リテラシー(英語版)(Statistical literacy)
人種リテラシー(英語版)(Racial literacy)
文化リテラシー(Cultural literacy)
環境リテラシー

いやー、たくさんありますね。他にももっといろいろあるんでしょうが、キリがない。つまり、情報として取り扱うことができるあらゆるものが、「リテラシー」という単語の頭に冠される可能性がある。

そんな中で、今日はそろそろ、根源的なリテラシーを一つ考えなきゃいけないなという観点について、お話ししたいんです。それが「自分リテラシー」

今日のまとめはこうです。

自分の存在を情報流通を担う一部として認識し、その属性や能力を可能な限り客観的に把握し制御するような、自己のインプットとアウトプットを統括する能力こそ、「自分リテラシー」である。

というものです。奇妙に思われるかもしれませんが、そういう時代になってきた気がしてます。

1.夜の渋谷のディストピア

「自分リテラシー」なんて言葉、まだ多分どこにもないとおもうんですが、こんなことを考えたきっかけは、一つの画像でした。こちら。

皆さんも多分リツイートで回ってきたかもしれません。少し前に話題になった「ディストピアの渋谷スクランブル」ですね。これは投稿者ご自身が書かれているように「要請ぜんぶ乗せ」なので、この表現を見た時点で「あ、これはCGかコラージュ画像(合成して作った画像)なんだな」ということが推測されました。

そして実際、投稿者ご自身が、この投稿から約11時間後に、連続ツイートの中で「コラ(コラージュ画像)」であると明言されています。

ところがニュースになったように、拡散の経緯でこれを本物の渋谷と思った方が、たくさんいらっしゃいました。それほど絵のインパクトが強かったからでしょうし、「これならありうる」と考えてしまって、書いている文字や、連続ツイートなどをみない人が多かったんだろうと思います。

インタビューを見てみると、このちょっとだけ刺激的な「お遊び画像」が、徐々にポリティカルな色合いを帯びながら、炎上の程を成していった経緯が触れられています。

さて、この件に関して、責任追求をしたいとかそういう気持ちはさらさらございません。また政治的なあれこれも、僕はあまり興味がありません。興味があるのは、この画像が拡散されたメディア的な特性です。つまり、「どうしてこの作られた画像が、本物だという流れにすり替わり、それが受け入れられたのか」という経緯の方です。

2.SNSというメディアと、「自分」という情報

もちろん、その主因はSNSです。情報拡散の過程において、重要な一部が落とされて、物事が単純化され、さらには悪意を持った誰かが途中で「これは本物だ」と歪曲するようなことも起こり得るのがSNSです。そしてこのSNSに対して問題の責任を押し付けることによって、物事はある程度の収まりを迎えることができます。京極夏彦なら、「憑き物落とし」とでも表現するところでしょう。幽霊の正体見たり枯れ尾花、ではなく、SNSでした、と言ったところです。呪いの本体は、SNSにある。そう、2010年代後半から明らかになったのは、僕ら人間にとってSNSは、ちょっと手に余る「諸刃の剣」であるという側面でした。

ですが、2020年代を進むにあたって、このSNSをめぐる状況に対して、もう一つの担い手の取り扱いを、そろそろ真剣に考えるべきだというふうに感じるんです。それこそが、僕ら個人。これまで「メディア」は向こう側にあり、自分自身は基本的にそこからは切り離されていた、我々一般人です。それこそが今やSNSという怪物的メディアを担う、一要素な訳です。

ここで大事な点は、SNSは情報そのものではなく、あくまでもシステムです。そしてそれがメディア化するほどに巨大になった。そしてこのSNSというシステムにおいては、僕ら個人は単なる読者であるだけではなく、僕ら自身が流れる情報であり、その情報流通を担うメディアでもあるという点です。SNSの内部において、僕らは情報のインプットとアウトプットの両方を担うメディアであり、そして同時に、それ自体として情報体なんです。僕らはSNSの内部において、相当複雑な立ち位置を与えられている。

だからこそ、僕ら自身が情報流通に与える影響を考慮することなしに、もはや20年代のあらゆる「リテラシー」を理解することは不可能ではないかと、そんなふうに感じたわけです。

3.情報としての「自分」の属性

あらゆる情報の中で、おそらく最も扱いづらいのが「自分」です。なぜなら、自分は自分であるが故に、なかなか客体的に「情報」として把握したり処理することができない。一つ一つの流入する情報は、人間誰しもが抱える「認知の歪み」のフィルターを通してインプットされ、その歪んだ認知の下で形成される認識のままに、アウトプットが形成される。僕ら自身を「情報の総体」として見なす時、その本質を冷静に評価するならば、妥当な言葉は「偏見の塊」とでも名付けるべきなのかもしれません。それほどの歪み方をしているはずです。

でも、2000年代に入る頃までは、それでもよかったんです。僕ら自身が情報として流通するという事態は、それほどなかったからです。でも皆さんももうこの論旨の流れを予想されているとおもうんですが、SNSが全てを変えてしまった。2000年代、特に2010年代以降、現代の人間のほぼ全てはSNSに乗っかるようになってしまった。その瞬間、僕らの個性、人格、存在、肩書き、etc... 僕ら自身にまつわる全てのものが「情報」として流通する世界が出来上がってしまったわけです。

そのため、僕らは常に毎日、SNSでどこかから流れてくる情報をインプットしてアウトプットする。その時、インプットとアウトプットの情報の属性は、僕らの認知という「ハブ」を媒介して、情報の摂取と拡散がなされる。しかもその「ハブ」は、上に書いたように、何がしかの歪みを抱えています。つまり僕ら自身を情報流通の一要素として考えるならば、決して素直な、ただ情報が素通りしていく透明のフィルターのようなメディアにはなり得ないわけです。

それどころか、情報流通の価値を変えたり、増やしたり、あるいは減らしたするファクターとして、情報流通の流れを、好むと好まざるとにかかわらず変容してしまう。そのような歪みを持った存在を、僕らはSNSという巨大メディアを駆動させる一要素として、日々目の当たりにしているわけです。ほら、なんだか「ちょっとやばいかも」って思い始めませんか?そう、僕はちょっと前から、そう思ってるんです。

4.「自分リテラシー」の提案

このような認識のもとで思い至ったのが「自分リテラシー」という考えです。あらゆる「情報」の「インプットとアウトプット」が対象となる「リテラシー」という能力は、今まさに、僕ら自身に向けなければならないのではないか。そして「自分という情報を扱う能力」を培った先にしか、これからもっともっと増えていく情報と、それに対応する種々の「現代的リテラシー」に対する理解が進まないのではないか。そんなことを思うんです。例えば日経にこんな記事が出ていました。

ワクチン接種の混乱、悪いのは「お上」だけか、という記事です。記事の中から引用を一つ入れますね。

国や自治体のシステム環境やその運用体制は、結局は自分たちの投票行動の反映です。現状を「お上の責任」にしてしまうのではなく、国民が自分のこととして捉えることが、テクノロジーを社会に役立つよう実装するうえで必要なプロセスでしょう。(上記記事より引用)

文中において、筆者はワクチン接種の混乱を、官庁のデジタルリテラシーの欠如から、さらには日本人のポリティカルリテラシーの低さへと論旨を引き継ぎつつ、警鐘を鳴らしています。

ただ、二つのリテラシーを架橋する時、話がどうしても少し壮大になりすぎる。僕らは多分、官庁のデジタルリテラシーの低さを「自分のこと」として捉えることは難しいし、また政治的にウブな国民性も、今すぐに変えることはできそうにない。

でも、SNSに毎日投稿する自分自身への振り返りならば、今日の投稿のことなので、ちょっと振り返ることができるわけです。RTする前に、そのRTする情報が本物なのかどうか、ちょっと考えてみる。あるいは自分はそれをちゃんと読めているのかどうか、留保する時間を持つ。刺激的な「釣りタイトル」にだけ過剰反応していないかどうか、自分の判断力は本当に正しいのかどうか、「自分を括弧に入れる瞬間」って、SNSには結構たくさんあって、そういうのって、やろうと思えば、いますぐできる。

でも、それを「道徳」とか「倫理」っていうふうにいうと、敬遠しちゃう人も多いだろう。だからこそ、「リテラシー」っていう、ちょっと横文字のラベルを貼ってみる。自分もまた情報なんだという風に、ちょっと自分と距離を置けるような認知のきっかけを作る。そんな風潮を作ってみる。そういう風潮が出来上がると、「自分もまた情報の一端を担っている」という、うっすらとした責任の共有が生まれるかもしれない。その「うっすらとした責任の共有」が生まれるだけでも、世界は随分と変わる気がするんですよね。

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別所隆弘
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