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新年に、アート思考から「おわり」を意識する

2021年、明けましておめでとうございます。uni'que若宮です。

旧年中は大変お世話になりました。本年もどうぞよろしくお願いいたします。(琴のBGM)


さて、2021年一発目の日経COMEMOですが、新年早々「おわり」について書きたいと思います。


作品の「おわり」

次回の著作の参考にと、年末年始で『作品の哲学』(佐々木健一)という本を読み直していました。

アートにおける「作品」という概念は実はもともとあったものではなく、時代とともに、そしてその時代の哲学とともに変化・確立されてきたものなのですが、『作品の哲学』で指摘されているように、「作品」にまつわる重要概念に「完結性」というのがあります。

これは、物語であれ、絵画であれ、音楽であれ、「作品」というのは明確に「おわり」をもつ、ということです。

作品にまつわる「おわり」には2つのポイントがあるとおもうのですが、ひとつは「作品」と日常世界の「区切りとしてのおわり」です。絵画の画面の終端や物語の最後のピリオド、音楽の残響のあとの静寂は、それから先は作品の外の日常世界であるという意味で「おわり」です。

もう一つの重要なポイントは「制作のおわり」です。芸術家が作品をつくるプロセスは継続的なものですが、手直しをし続けているうちはそれは制作途上であり、「作品」になりません。作者はどこかで「おわり」を決め、それを制作のプロセスからもぎり取らなければいけないのです。


「おわり」は不自然なもの

先程「完結性」というのが「作品」の重要な性質である、といいましたが、実は「おわり」があるということはとても人為的なことであって、自然には実は基本的には「おわり」がないのです。たとえばノンフィクションの本を考えてみた時、その物語には「おわり」がありますが、たとえ物語が終わろうともその人の人生は続いていきます。その人の人生が死でもっておわろうとも、自然は「おわり」なく続いていきます。(人間にとっては「死」は重大な「おわり」とおもえますが、自然にとっては円環のプロセスの一時点にすぎません。そう考えると「死」を重大視すること自体がとても「人為的」なことだともいえます)


その営為が後にのこすものに対して明確な輪郭を与えたいからこそ、人は儀式によってその存在を際立たせるのであるし、明瞭な輪郭をもって後に残されたものは、既に作品である。他方、自然が連続的で果てしなく広がっている、ということに異論のある人はあるまい。(『作品の哲学』)

artというのは「artificial人為的」という言葉と同根でもありますが、それは「自然的」との対義語です。「おわり」はまさに「人間によってつくられたもの」であり、だからこそ「完結」によって作品を「作品」にすることができるのです。


たとえば、「年末」というのも人間がつくった「おわり」です。自然には周期性はありますがそこに「おわり」はありません。ただ繰り返し、つづいていくだけです。しかし人間はそこに、わざわざ「おわり」を「つくる」のです。


今年はコロナ禍でいつもよりもだいぶ静かなものだったようですが、こんな中でも参拝やカウントダウンなどを行い、祝祭的に「おわり」をつくりたい、というのは人の性のようです。

「おわり」があることで次を新しく始められる。それは2020年という年を「完結」させる、ひとつの儀式なのです。


workの「おわり」を意識する

さて、「作品」には「おわり」が必要であり、「おわり」によって作品は作品になる、ということを述べました。ここで「おわり」について、アート思考観点から再度考えてみましょう。


アート思考ではよく「仕事work」をアートの「作品work」にたとえます。

芸術家が自分だけのworkをつくりだすように、自分だけのworkをつくりだそう。

というのがアート思考のモードであり、「自分だけのユニークな価値をどうやって生み出すか?」ということがまさにアート思考的な問いだからです。

workが作品となるための重要なポイントのひとつはユニークネスです。日常的にはひとはつい、workを「与えられ、こなすもの」だと考えがちですが、そうするうちに仕事からは「自分らしさ」が減り、なくなっていってしまいます。他者の要求や常識にまかせるうちにworkがこなすだけの「作業」になっていってしまうのです。


そして、「作品」に「おわり」が必要である、ということから考えると、workには「完結性」が必要であり、そのために「おわり」が重要だということになります。

わたしたちはビジネスや仕事においては「おわり」よりも続けることに意識が行きがちです。「おわり」を考えずにつづけていると、仕事が緩慢なものになったり、「惰性」になったりします。

週刊誌の多くの少年マンガやソシャゲがそうであるように、「おわり」への意識がうすくビジネスのために続けることが目的化してしまうと、だらだらと続けられた挙げ句もっとも熱量が下がった時に打ち切りになったり離脱する、という最後を迎えることになります。途中の体験がいかにいいものだったとしても、最後がそうだと全体の体験がやはり残念なものになってしまいます。続けているうちに、アート思考的なworkとは真逆でユニークさがほとんどない、すかすかの「こなし作業」になってしまうのです。それは味がなくなったガムが吐き捨てられるようなもので、「作品のおわり」といえるようなものではありません。

また、以前こちらの記事でも書いたのですが、「おわり」を考えずに続けようとするとかえって「短期的」になる、ということもあります。

最近考えていることに「人は終わりがあると長期的になり、終わりがないと短期的になる」というパラドクスがあります。
これはどういうことかというと、たとえば仕事でもプライベートでもそうなのですが、自分があと1年しか一緒にいられない、とか期間が決まっていると、ひとは「自分がいなくなった時」のことを考え、未来のために長期視点で動く気がするのです。
一方、終わりが決まっていないとやめたくないので短期的に「成果」を出すことにこだわって逆に近視眼的になる。政治家でもそうですが、議席や自分のポジションに固執して任期を伸ばしたがるひとは大局的なことを考えられなくなる気がします。


そしてもう一つ、「制作のおわり」ということから考えてみましょう。作者はどこかで制作を「おわり」にすることに決め、それによって制作プロセスから「作品をもぎ取り」ます。しかし、「制作のおわり」は単なる終止符を意味しません。というのも「作品」はこの「おわり」によってはじめて「作品」としての命を得て、たくさんの鑑賞者に出会う旅へと旅立って行くことができるからです。

これとおなじように考えると、「仕事」においても「自分の手」を離れることは「おわり」ではあるけれども、その「仕事」が他の人達と出会っていくための旅立ちである、ということが言えるでしょう。「おわり」は「仕事」をネクストフェーズへと移行させ、さらなる展開へと生きさせることでもあるのです。


「仕事」を「作品」と考えてみる。そのworkはどんな「おわり」を迎えるべきであり、あるいは自分自身がどこまでそれと関わるべきか。そうした「問い」と「おわり」の相克のなかで、workを通じてひとは「自分」を改めて発見するのではないでしょうか。


仕事を自分らしい、ユニークな体験にし、その価値を最高のものにするためにこそ、2021年はこれまで以上に「おわり」を意識し、「おわり」をどうするか、というのをよく考えて仕事していきたいとおもいます。



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