見出し画像

アフガニスタンの混迷と、研究者としての来歴と

われわれの過去20年間は、「タリバーン政権の崩壊」に始まり、「タリバーン政権の復活」に終わった


はたしてわれわれは、この20年をどのように回顧すればよいのだろうか。

私が大学院博士課程を修了したのが、2000年3月。大学教員としてこの年の春から教え始め、翌年の2001年9月11日はちょうど夏季休暇を利用してロンドンに史料収集に行っていた。

一週間ほどロンドンに滞在して、キュー・ガーデンにある国立公文書館(The National Archives)に通い、次の研究のテーマについての史料を集めているところであった。ロンドンとアメリカの東海岸では時差があるので、アメリカ東海岸の朝の時間帯は、ロンドンでは午後であった。

ちょうど史料収集を終えてホテルに戻る途中、騒々しい人々の様子を見ながら、何かとてつもないことがアメリカで起こったことを悟った。乗客を乗せた旅客機が、ニューヨークの世界貿易センタービル、そしてワシントンDCの国防省(ペンタゴン)に突っ込んだという。何が起こったのか、最初は意味が分からなかった。意味が分かるようになると同時に、あまりにも恐ろしい事態に慄いた。

今、私が大学で教える大学生の多くが、この2001年9月11日以降に生まれたか、あるいはまだ幼少で国際政治の動向を理解する段階に到達していないか、いずれかであろう。つまりはこの9・11テロの衝撃を、同時代的には体験していないのだ。だから、少しばかり、それを私がどのように感じたのかをここでは記してみたいと思う。

それは、ちょうど国際政治学者として本格的に仕事を始めるスタート地点に立った時点で、その足元が崩れ落ちるような気分だった。

それまで自分が学んだ国際政治学の学問的基礎を解体するような、常識では理解が困難なテロリズムである。アルカーイダという非国家主体が、正規の軍事組織ではなく民間の旅客機を「兵器化」して、自らの命を失うことを覚悟してアメリカの権力の中枢を「攻撃」したのだ。

動揺したのはわれわれ若手の国際政治学者だけではなかった。アメリカのブッシュ政権、そして怒りと憎しみと報復の感情に燃えたぎるアメリカ国民も、その後はたしてどのような政策を選択するべきなのか、冷静かつ慎重に検討する雰囲気を失っていた。怒りと熱狂の渦のなかで、アメリカ国民は外国人テロ集団のアルカーイダをかくまうアフガニスタンのタリバーン政権を「敵」とみなし、そこへの大規模な軍事攻撃を支持したのである。

国際政治学者として、そして大学教員としての私の人生の新しいステージは、アフガニスタン戦争とそれに続くタリバーン政権の崩壊とともにはじまったのである。2001年秋のことであった。

「119」と「911」そして「815」

もう少しばかり、私の国際政治学者としての歩みをふり返ることを、お許し頂きたい。

私が国際政治に関心を持ち大学でそれを学び、その後大学院に進学し、そして博士課程を修了して、国際政治学者の卵としての歩んだ期間は、「119」と「911」という二つの数字に挟まれている。

「11・9」とは、ベルリンの壁が崩壊した1989年11月9日のことである。冷戦時代、そして世界の分断を象徴していたドイツのベルリンの壁が、この日に崩壊した。ちょうど私が高校三年生の時である。それまで何か特別に、国際政治に関心をもっていたわけではなかった。それまであたりまえのように存在して、世界史の教科書にも書かれていた冷戦の象徴である「ベルリンの壁」が崩壊するそのテレビの映像は、あまりにも衝撃的であったのだ。歴史が歯車の音を立てて動く瞬間を体験した。それは生まれて初めての経験だった。いわば、その時代に私の世代は集団的な興奮状態だったのかも知れない。

それだけではない。不可能であり、不変だと思っていたものが、実際にはそうではなかったことに気付いたのだ。人々の情熱や、固い意志、そしてわずかばかりの偶然が結びつくことによって、世界史が回転して、前進するのである。それは悦びであり、希望であった。テレビの映像に映っているドイツの人々は、ベルリンの壁を壊し、壁の上に昇る。そしてそれまで東西ベルリンに分かれていた「自由主義国家」と「共産主義国家」で生まれ育ったベルリン市民が、手を取り合っているのである。暗く危険な冷戦の時代が終わり、新しく希望に満ちた冷戦後の時代が始まる。そのような高揚感をもって、われわれは大学で国際政治を学び、そして冷戦後の新しい世界に前進したのである。

そのようなわれわれの世代の多くの人たちが、国際政治学という学問に魅了された。世界史の回転は、ベルリンの壁の崩壊にとどまることはなかった。その後、湾岸戦争、ドイツ統一、そしてソ連の崩壊という、われわれが想像もしなかった新しい事件が陸続した。しかも、テレビの映像によって、自宅にいながらそのような世界史的な変化を共時的に体験できたのである。

一連の変化が始まる端緒となったベルリンの壁崩壊。われわれにとって「11・9」とは、希望と可能性、そして明るい未来を照らす記号となった。いまではそのような冷戦終結の過程も、すぐれた歴史研究が刊行されて、世界史の1ページとなりつつある。

そして、それから12年が経過した後の、2001年9月11日。冷戦終結によって二つに分断されていた世界がひとつとなった。そして、自由主義や民主主義が世界中に拡大していき、国連を舞台として平和や国際協調が広がっていく。そのような楽観主義を抱擁していたわれわれの世代の多くの国際政治学者が、驚くべき冷酷な現実に直面した。9.11テロである。

残虐で野蛮なテロリズムが無辜の市民の命を奪い取り、破壊と廃墟をもたらした。そして人々がそれまで抱いていた希望や楽観主義の感情が、怒りや憎しみ、絶望へと変わっていった。ブッシュ政権下のアメリカは、怒りの感情とともに、強大な軍事力をもって戦争に突入する。それが、2001年10月に始まるアフガニスタン戦争であり、2003年3月に始まるイラク戦争であった。

なぜ戦争がはじまってしまったのか

われわれが抱いていた希望は、何だったのか。冷酷な現実は、冷戦時代も冷戦後の時代も変わりがないのだろうか。そもそも、なぜ破壊が必要であり、戦争が必要と認識されるようになったのか。

大学院博士課程では私は、1940年代後半の、第二次世界大戦後のイギリスの戦後国際秩序形成へ向けた外交を研究していた。それを基礎にした私のはじめての単著となる、『戦後国際秩序とイギリス外交』(創文社、絶版)を刊行したのが、2001年11月、ちょうどアフガニスタン戦争がはじまった時期である。

私はこの頃から少しずつ、現在、われわれが直面している問題についても論じるようになった。

第二次世界大戦後に国際秩序形成で大きな役割を担ったイギリスが、9.11テロの後にどのような外交を展開したのか。そしてどのような国際秩序構想を描いていたのか。そのような問題関心から、イギリスのトニー・ブレア政権がどのように9.11テロに向き合って、どのようにアメリカとの同盟関係を動かしていったのか。そして、イギリスはどのような理由からアメリカとともにアフガニスタン戦争、そしてイラク戦争へと突き進んでいったのか。それらを検討したいと感じるようになった。次第に新聞や雑誌にそれらについて原稿を寄せたり、テレビの報道番組でイギリスや英米関係の視点からそれを解説したりするようになった。

この頃に断片的に寄稿したものを、より本格的に資料を読みながら掘り下げて一冊の本にまとめたのが、『倫理的な戦争 ートニー・ブレアの栄光と挫折』(慶應義塾大学出版会)である。倫理的、道徳的な目的を掲げて、軍事力を行使するその意義や、問題、そして限界をここでは論じている。

とりあえず、この本を執筆したことで、私なりに9・11テロからイラク戦争へと至る過程でのイギリス外交の動きについて、ある程度納得できる「答え」を導き出せたと思っている。もちろん、本格的な歴史研究を書くためには、政府公文書などが公開されるもう少し先のことになるが。


ちょうど私と同じ世代の国際政治学者のひとたちと出会い、一緒に仕事をするようになったのもこの頃である。

『外交フォーラム』(都市出版、現在は『外交』となっている)の座談会で、イラク戦争の意味を問うテーマで中東専門家の池内恵さんとはじめてお会いしたのが、確か2003年。鮮烈な印象を受けた。そして同じ頃、NHK衛星第一放送で夜に放送している「国際報道」という番組で、アメリカ外交が専門の中山俊宏さんとご一緒して、控え室で色々とお話をした。この池内さんと中山さんとは、幸いにしてその後20年を超えておつきあいが続き、今でもニコニコ動画の「国際政治チャンネル」をはじめ、ご一緒する機会も多い。またつねに多くのことを教えて頂いている。

よりよい世界へ向けて

また、ちょうどこの頃、イギリスのロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)で博士号を取得して、その後広島大学で教えていた篠田英朗さんとも出会った。研究者としての篠田さんの視野の広さと、視点の新しさ、そしてその重厚さは圧倒的であった。

それは、篠田さんが創文社(学術書出版社で数多くの良書を出しながらも、売上減少が続き、2020年に販売活動の終了と解散)から、『平和構築と法の支配ー国際平和活動の理論的・機能的分析』(創文社)を刊行した直後であった。この著書が朝日新聞社が主催する大佛次郎論壇賞を受賞したその授賞式の2次会で、ゆっくりとお話しをする幸運を得た。

ちなみに、この篠田さんの前の年に池内恵さんが同じ賞を受賞して論壇で脚光を浴びていた。この授賞式の2次会で、篠田さんと、前年度の受賞者の池内さんとご一緒したわけだが、この三人で後に立ち上げることになるのが「国際政治チャンネル」である。

篠田さんの場合は、学生時代にカンボジアのPKO活動にボランティアとして参加して、その体験談を本にするという独特な経歴を持っていた。さらに早稲田大学では政治思想史のゼミ出身で、その後イギリスのLSEの大学院では国際政治理論を研究して、それらを基礎にして平和構築の実践と理論を研究していた。研究者としてはめずらしい視野の広さと、関心領域の多様性を持っていた。

激変する国際政治の構造をより深く理解したい。池内さんの場合は中東の地域研究、篠田さんの場合は国際政治論と平和構築論、そして私の場合はイギリス外交史研究と、それぞれ異なる専門を立脚点としながらも、世界で起こる新しい情勢についてそれを理解し、また専門的な見地から解説する必要を感じたのだろう。

「象牙の塔」にとどまる大多数の研究者とは異なり、新聞や雑誌など、さまざまなメディアで発信することに意義を感じ、それを20年間続けてきた気がする。

ところが、この20年間、世界がよりよい方向へ向かっていったわけではなかった。アフガニスタン戦争もイラク戦争も、戦争後には混迷を深め、フセイン政権崩壊後でのイラクではその「力の真空」に「イスラム国(IS)」という過激派武装集団が誕生し、またタリバーン政権崩壊後のアフガニスタンでは、内戦や混乱が続いた後に、再びタリバーンが権力を掌握しようとしている。

共産主義体制崩壊後の中東欧では、ベラルーシのルカシェンコ政権やハンガリーのオルバン政権に見られるように、独裁体制、権威主義体制、ポピュリズム政治がまん延していく。また、国連を中核とした多国間協力が、国際社会の平和をもたらすことを期待していたところ、現実には米中対立が世界を不安にして、デカップリングがグローバリゼーションの果実を侵蝕している。

世界史の中で、世界はよりよい方向へと動くこともあれば、より悪い方向へと動くこともある。冷戦後の世界を見つめ、よりよい世界が誕生することを期待した私の世代の国際政治学者の多くにとっては、アフガニスタンでのタリバーンの権力復帰は、まるで「砂上の楼閣」が崩れ落ちていく、その様子を眺めるかのようである。

そして、「8・15」…

アフガニスタンのアシュラフ・ガニ大統領が、タリバーンの攻勢を受けて国外に脱出したことが報じられたのが、日本の終戦記念日である「8・15」であることはあまりにも象徴的であった。日本にとって、苦悩と困難の屈辱に溢れた戦争で敗北を喫して、終戦を迎えたのが1945年の「8・15」だとすれば、アメリカの20年に及ぶ、「最も長い戦争(America's Longest War)」(Foreign Affairs)がいわば「終戦」を迎えたのが2021年の「8・15」であった。

国際政治学者として、また外交史家として、この「20年」をどのように考えたら良いのか。いずれ一冊の書籍としてまとめたいとも思っている。歴史家であり国際政治学者であったE・H・カーは、かつて戦間期の20年間の国際情勢の動向を、構造的に、そして理論的に検討して、同時代的な研究として『危機の20年』を刊行した。1939年のことであった。今や、新しい「危機の20年」が必要となっている。

今私が読んでいるのは、9・11テロ後のアフガニスタンでの動向を描いた、多谷千香子『アフガン・対テロ戦争の研究 ータリバンはなぜ復活したのか』(岩波書店、2016年)である。東京地検や外務省で勤務した後に、旧ユーゴ戦犯法廷判事を経て現在法政大学で国際刑事法を教える著者によるこの優れた著書を読むと、5年前に書かれているにも拘わらず、現在起きている情勢の論理が驚くほど鮮やかに描かれている。ガニ政権の崩壊は、起こるべくして起こったのであり、タリバーンの権力復帰も言わば時間の問題であったのかも知れない。重要なのは、それを阻止する方策が数多くあったにも拘わらず、アメリカ政府も、国際社会も、もちろん日本も、それができなかったということである。

アフガニスタンは国際社会から見捨てられたのだ。

アフガニスタンが国際社会から見捨てられたのは、これがはじめてではない。外交史家であり、また国際政治学者であった緒方貞子上智大学教授が、1990年代に国連難民高等弁務官として、繰り返しアフガニスタン難民の問題、そしてアフガニスタンがタリバーンに統治されている問題に警鐘を鳴らしていた。それにも拘わらず、十分にそのような声にわれわれは耳を傾けてこなかったのだ。

内戦が10年間続いていたアフガニスタンは、2001年の9・11テロが勃発する直前には、世界でも最貧国ともいえるような窮状であると同時に、イスラーム過激派のタリバーン政権のもとで女性の人権が奪われるような状況であった。緒方女史は次のように回顧している。

「この状況に対して、アフガン難民を支援してくれる国は減っていきまして、私たちも資金的に本当に苦労しました。冷戦期であれば、戦略的にも重要なところでしたから、コミットする国はたくさんありましたが、九〇年代を通じて世界からほとんど見捨てられたようなものでした。」(野林健・納家政嗣編『聞き書・緒方貞子回顧録』岩波書店、2020年、274頁)

冷戦終結がもたらした混乱や内戦に国際社会が困惑し、また世界中の大国がアフガニスタンの窮状を無視する中で、緒方貞子国連難民高等弁務官のみがアフガニスタンを訪問して、世界にその問題の根深さを訴えていた。だが、「アフガニスタンについては大きな進展がないまま、難民高等弁務官としての私の任期は切れたのです」と記している。アフガニスタンでテロリストの訓練を行い、それらのテロリストたちがアメリカ東海岸で前例のない暴虐なテロリズムを実行するのは、まさにこの直後のことであった。

歴史が純粋に繰り返されることはない。「2021年」は「2001年」ではない。この20年間の国際情勢の変化、そしてアフガニスタン国内の変化を十分に認識して、これから必要なことを考えていかなければならない。2019年に逝去された緒方貞子女史は、回顧録の中でアフガニスタンについて、次のように書いて筆を置いている。

本当に難しい地域ですが、国際社会が長期にわたってコミットしていく以外にないと思います。

戦争と暴力の後に

アフガニスタンで、緒方貞子女史に加えてもう一人、敬愛される日本人がいた。「カカ・ムラト」(ナカムラのおじさん)と呼ばれ、長年アフガニスタンで難民支援や医療支援を行ってきた中村哲医師である。ペシャワールの会代表を務め、内戦下のアフガニスタンで治水事業や、医療活動を行ってきた。奇しくも緒方女史と同じ2019年に亡くなった。享年73歳。

アフガニスタンのジャラーラバードで武装集団の凶弾に撃たれ、搬送途中に死亡した。アフガニスタンでの長年の功績が認められ、国家勲章、さらには名誉市民権が与えられ、カブール空港での追悼式典ではアフガニスタン大統領のアシュラフ・ガニ自らが、棺を担いだ。いかに彼が、この国で尊敬されていたのかがよく分かる。

この中村医師もまた、緒方女史と同様に、直接アフガニスタンと難民と向き合って話をし、耳を傾け、彼らが求めるものを提供しようとした。

中村医師は、その著書の中で、アフガニスタンという国家とそこにいる民族の特徴を詳細かつわかりやすく描いている。

そこでは「人々は古来から異なった集団同士の共生の知恵を身につけている」という。そして、「彼らを結びつけるイスラム教と並んで、幾千年もかけて身に染みついた伝統と呼べるもの」として、そのような「共生の知恵」を重要視している。そして、次のようにアフガニスタンの特徴を描写する。


民族だけでなく、部族構成はさらに複雑である。アフガン社会、特に農村部では地縁と血縁の絆が強い。そして、政治思想や経済動向ではなく、この絆がしばしば政治の動きを決定する。地理的条件に規定されて、各地域の自治・割拠性が著しく、中央との結びつきが薄い。村落共同体では、長老会(ジルガ=伝統的自治組織)を中心に自治が成り立っている。一般に兵農未分化の社会で、全ての農民男子は同時に村を守る兵員であることが多い。アフガン戦争(1979~89年)では、初期、ソ連=政府軍との戦闘の主力は、これら農民そのものであった。

今回、タリバーンはまさに、長老会と話し合って、戦闘を行わずに地方都市を次々と手中に収めていったことが報じられた。他方で、海外生活が長く、コロンビア大学で学位を取った経済学者であったガニ大統領は、首都カブールからほとんど出ることなく、そのような地方の村落共同体との深い結び付きや絆が薄かった。その違いが、タリバーンの攻勢と関係しているのかもしれない。さらに続けて、中村哲医師は、次のように記している。

私たちは「国」と言えば、中央政府があって、その行政機構が隅々にまで及び、定められた法律に従って人々が暮らしている状態を想像する。この意味では、アフガニスタンがいわゆる近代的な法治国家であるとは言い難い。しかし、これをもって「無政府状態の破綻国家」と決めつけるのも早計である。地域の自治性がいかに強くても、部族、民族が入り乱れて争っていても、共通した不文律が「アフガニスタンという天下」にまとまりを与えている。

この不文律が、「パシュトゥヌワレイ(パシュトゥンの掟)」と呼ばれるものである。

結局、20年間軍隊を駐留させていたアメリカ軍は、長年そこに住み、そこの人々と交流してきた中村医師とは異なり、この「パシュトゥヌワレイ」も、彼らが話すパシュトゥン語も、十分に習得することが出来なかったのかも知れない。その結果、武力に頼って安全や安定を得ようとしたのかも知れない。だからこそ、中村医師はこの著書の中で、「剣で立つ者は剣で倒される」と書いている。結局は、米軍は、「剣」を超える信頼関係を築くことができなかったのだ。

「信頼」は一朝にして築かれるものではない。利害を超え、忍耐を重ね、裏切られても裏切り返さない誠実さこそが、人々の心に触れる。それは、武力以上に強固な安全を提供してくれ、人々を動かすことが出来る。

信頼を生み出すことができなかった結果、そこから撤退するしかなかったのだ。

アフガニスタンの事情に精通した中村哲医師のミクロな視点が重要であると同時に、世界全体を俯瞰して国際政治の歴史を観るマクロな視点も必要だ。監訳者として私が携わった、モーリス・ヴァイス『戦後国際関係史 ー二極化世界から混迷の時代へ』(慶應義塾大学出版会)は、冷戦後、とりわけ9.11テロ後の国際関係の歴史をもっとも力を入れて描いた、日本語で読める国際関係史の通史といえるだろう。すでに冷戦が終結して30年、そして9.11テロから20年が経過した。その国際関係史を俯瞰する視点が、われわれには不可欠だ。この著書の副題が示すとおり、まさに「二極化世界」から「混迷の時代」へと移行してきたことが、この30年の歴史の概略であった。

ヴァイス教授は、比較的早い段階で、次のようにアフガニスタンの問題を要約している。

アフガニスタンは、持続的な国際支援によりかろうじて国家としての要件を満たしており、それはまたアメリカの戦略の失敗を象徴していたのである。

日本人である緒方貞子女史、そして中村哲医師、そしてフランス人の外交史家であるヴァイス教授は、みな一様に、アメリカの戦略の失敗を語り、それが必然的にタリバーンの支配の拡大と、アメリカの庇護の下にあるアフガニスタン政府の限界を指摘する。いまわれわれが見ている光景は、これまでの軌跡の延長線上に生まれたものなのであろう。

アフガニスタンの千年を超える歴史、そして地縁や血縁の絆と、長老の存在によりつくれる村落共同体のネットワーク。それらを前に崩れてしまった「砂上の楼閣」。とはいえすべてが無駄であったわけではない。国際社会の支援のもとで、アフガニスタンの人々は、より安定した豊かな暮らしや、女性が生き生きと活動できる社会を経験した。アフガニスタンに生きる人々の眼差しを見つめるミクロな視点と、冷戦終結後の国際関係の歴史を俯瞰するマクロな視点。この二つを組み合わせる中で、これからこの地域がどのようにしたら安定するのか、考えていきたい。

#日経COMEMO #NIKKEI

いいなと思ったら応援しよう!