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「あえて言わない」が日本のドラマの特徴 ー 異文化理解なしに成功は危うい

Netflixのヒットドラマが韓国からたくさん出ていることから、日本でも「これからドラマは世界を目指せ!」との記事が目につきます。

「海外にも受け入れられるヒット作をつくるには、まず我々や日本が認知されることが必要だろう。韓国は韓流といったブランドをつくった上で成功を収めている。そういった土壌をこの5年でつくれるか。日本はまだ荒野で開拓されていない。世界に向かう人とたくらんでいきたい。まだ先になるだろうが、日本では少ないSFの大作やシリーズ作品などに挑戦したいという思いがある」

このような記事を読みながら思い出すのは、まったく別の分野ながら、欧州人から耳にタコができるほど散々聞かれてきた、「欧州のデザインを韓国に出しても、そのまま受け入れてくれる。が、日本はローカライズの要求が厳しい。どうしてなんだ?」との質問です。家具であれ、ファッションであれ、必ずといってよいほどに言われます。

韓流、クールジャパン、これらを比較して投資金額の大小や政策の良し悪しを論じる前に、根本に韓国の人がもっている感覚や考え方が欧州にそのまま通じるところが大きい。この現実に注目するのが良いと思います。

上述の記事の文脈では、この点を日本でドラマを作っている人たちがどれだけ意識しているか、です。そして、日本らしさ云々を超えたレベルで面白い脚本であることが第一でしょう。

ドラマを題材に、欧州文化に生活する身として日頃感じていることを書くことにします。抜群に面白い脚本は文化差を超越しますから、抜群とは言いにくいレベルの脚本が対象になるでしょう。

日本のドラマは「喋らない」ところから話が展開する

日本のドラマをかなり見てきましたが、ある特徴が気になっています。それは「何かをあえて言わない」ことが脚本のなかで重要なポイントになっていることです。病名を伏せる、自分の身のまわりに不幸があっても伝えない、恋していることを隠す・・・ここから誤解や衝突が生じていくのがストーリーの基本パターンになっています。

そうした秘密は、病室の外の廊下で偶然に患者と医師の会話を耳にしたり、障子の向こう側で聞いていたり、空気を読まない友人がばらしたりして、結果としてハッピーエンドに繋がっていきます。

確かに昔は「あえて言わない」文化が日本において強かったです。ハイコンテクスト文化は暗黙の了解を前提としています。

しかし、現代においても、そうだろうか?「今どきは、もうこのあたりはオープンにするだろう」と思うことでも、あえて隠す、あるいは曖昧にさせる。なにも年齢が上の世代が主人公ではなく、高校生や大学生が中心の脚本においても、そうなんです。ぼくは、そういうシーンにくるとイライラします。また、この手を使うのか!と。

なにもローコンテクスト文化に合わせろ、というわけではないが・・・

欧州はローコンテクスト文化であり、より明示的です。スイスのドイツ語圏がローコンテクスト文化の典型と言われます。イタリアはややハイコンテクスト文化よりですが、日本から比べるとよりローコンテクスト文化です。言葉にしなくてもすむことは多いとは言え、それなりの口数は必要ー例えば、プレゼントを他人から受け取れば、2-3分は、そのモノや行為を賞賛して感謝を表すのが普通、といった具合です。

西洋文化一般が主導してきた情報開示への動きは、もともとあったローコンテクスト文化の特徴と相性が良い。もちろん、だからといって、ただ明示的にすれば良いというわけでもないでしょう。

まずもってローコンテクスト文化とハイコンテクスト文化の間で大きく違うのは、「何を黙っているか」「何を明言するか」のカテゴリーに差異があることだと思います。これを再考してみる。

また、男女間の愛の告白が「相手の反応には自信がないけど言ってみる」(主観的に生きる)との精神が強いだけでなく、男性だけでなく女性側の告白も多ければ、お互いに明言される確率はそうとうに上昇します。愛の告白を、こうした社会構造からみてみる。

ただ、このような事情はあるにせよ、人間関係で鍵となる項目の情報共有への感度の違いは、やはりストーリーの理解を著しく妨げます。日本の人ならば、「なんで?と思うけど、ま、黙っているパターンを採用したのね」ですむところ、ローコンテクスト文化にある人は「黙っていることを選択する動機がまったく勘がつかないから、途中で見るのをあきらめた」となるわけです。

あまりに、そういう誤解や衝突を招く「分岐点」が多いと、ストーリーについていきたくとも、ついていく気力が維持できないのです。だから、ローコンテクスト文化とハイコンテクスト文化のせめぎ合いを意識するのが、脚本上の要所です。

「日本は謎の国」との路線もあるが・・・

前述のように韓国は日本と比較すると、欧州人にとって分かりやすい国と思われています。言うまでもなく、日本、韓国、中国の区別がつかない人が多数であるにせよ、そのなかでも日本のことは分かりにくいと見られます。

韓流ドラマにも「あえて言わない」がありますが、その量とタイミングが日本のそれと違うとの印象をもっているのでしょう。

他方、日本の文化に関心が高い欧州人は、日本の文化の不可解さが謎で魅力と目に映る、あるいは謎を洗練さの象徴とみます。建築物、工芸品、料理・・・こうした、いわゆるインバウンド需要の対象となるものは、この魅力が活きます。日本の自然を愛でる観光にも貢献します。

だが、特に日本に関心がない欧州人が興味をもつコンテンツの提供が議論の対象になったとき、「謎の国 日本」はまったくもって活きないでしょう。工業製品を一緒につくるビジネスパートナーが「謎の人」であったら話にならない。これには納得しやすいのですが、思いのほか、コンテンツにも謎志向があるのは、「日本のサブカルチャーは欧州でも受ける」とのフレーズの中身が十分に吟味されていない証ではないかと考えます。

したがって結論は、異文化理解なしに成功は難しい、ということです。テイストのローカリゼーションよりも、認知レベルのローカリゼーションをメインの課題とした場合、どのような異文化理解が要求されるか?を考慮すべきです。

蛇足:なんやかんやいってテレビ東京のドラマは好き

最後にぼく自身の趣味を書いておきます。

テレビ東京の深夜枠のドラマが好きです。ネット文化との親和性が良いのもありますが、製作費が全然かかっていない、肩肘なんかぜんぜんはっていないのが嬉しい。でもそこには挑戦者の姿勢があります。とても好感がもてます。

すごくくだらない内容のものが多いのですが、そのくだらなさが心地よいです。こういうくだらないのが好きなぼくが、上記のような意見を吐いているわけですね。

写真@Ken Anzai




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