頑張りと自己責任が生む偏見 〜「能力主義」の分断を越えるためにはどうすればよいのか
お疲れさまです。uni'que若宮です。
最近、こんな本を読んでいました。
この本は「能力主義」(本のあとがきにあるようにmeritocracyは「能力」というより「功績主義」と訳した方が適切かもしれませんが、ややこしくなるので書籍の訳語を使います)の批判なのですが、読みながら僕がずっと考えていたのはひとは自分が価値と信じてきた基準に根ざす偏見に気づき、いかに相対化できるのか?ということでした。
「能力主義meritocracy」の何が問題か?
(ここで述べるのは超大ざっくりの概略なので気になった方はもちろん書籍を読んでいただきたいのですが)マイケル・サンデルの「能力主義」批判は主に以下のようなものです。
・アメリカでは貴族主義ではなく、誰もが能力に応じて活躍できる能力主義的社会が目指され推し進められてきた。(いわゆる「アメリカン・ドリーム」)
・それが学歴主義と結びつき、一部の高学歴者だけが社会の仕組みをつくる官僚主義Bureaucracyとなり、結果として国民の多くの声がおざなりにされている。(議員の大卒率は国民の大卒率と大きく乖離している)
・しかし能力主義や学歴主義は純粋に「能力」を図れるものではなく、むしろ世帯年収や環境に大きく左右される。実際、能力主義社会の方が富の世代間流動率は低くなる実態がある(金持ちの子は金持ちという固定化)
・にもかかわらず、能力主義を勝ち上がると「自分が努力したから今の地位がある。待遇に差があって当たり前」とすべて自分の手柄だと思いこみ、そうではない人を「怠け者」と蔑視する
・結果として「自己責任」論による分断が進む。(裕福な者は能力があるから、貧乏なのは能力がないから当然の報い、という価値観)
とくに危険なのが最後の「当然」という価値観です。
ジェンダーギャップ是正への反論としても「能力主義」がよく言われますが、その時正当性として含意されるのはある種の「公平さ」です。能力がある人が高い地位に付き、高い給与を得てなにが悪いのか?それは公平だし、能力がある人が統治したほうが企業も政府もうまくいくだろう?性別を気にする必要はない
しかし、ここには2つの誤謬があります。ひとつは
1)「頭の良さ」が統治のための唯一もしくは最適な資質とは限らない
ということ。政治家が生活者や「当事者」から遠いために、共感を欠く人が「頭で考えた」施策がかえって状況を悪化させることがあります。(マイケル・サンデルは歴史的にも学歴に偏重しない内閣の方が良い政治をおこなったという事例をいくつかだしています)。
「能力主義」の結果、男性ばかりになるとそこからは「当事者の視点」が抜けます。本来、政治は「国民の代表」なはずなので様々な視点が入るべきですが、一部の属性の人が牛耳っている(しかも彼らがそれ以外のひとを「見下す」ような傾向がある)場合には、むしろ既得権益や全体主義が支配し自浄作用のない専制的悪政になる危険性があります。
そしてこの時根拠とされている「能力」にも実はあまり正当性はありません。
2)「能力」による「功績」だと思っていることの半分くらいは本人の努力とは関係ない
のです。
運ではなく、自己責任?
男性で「能力主義」に囚われている人の多くがこの罠にはまっています。
たとえばその人が「男性」に生まれたのは完全に単なる偶然にすぎません。その偶然の環境のおかげでたまたま苦労なく成功できたはずなのですが、(近代の過剰な合理信仰により)偶然性は捨象され、自分が成功したのは「頑張ったから」あるいは「能力があったから」と考えるようになってしまうのです。
もちろん、本人の能力や頑張りもゼロではありません。しかし、(実際はそんなことはあり得ないのですが)たとえば生来の能力が全く同じ人が2人いたとして、性別がちがったり国籍が違ったらおなじ「能力」を発揮し「功績」をあげることが出来るでしょうか?
さらにこうした誤謬には、以前こちらのインタビューで答えたように「生存バイアス」も関わってきます。
どれだけ過酷な、不利な状況であっても、surviveする人や帰還する戦闘機というのは一定います。(それを生き延びたり帰還できたのは単なる「偶然」の部分も多いのですが)、生存者だけのパースペクティブから見ると誤った推論がされ、「脱落者の声」が消えてしまう。
例えば、マイノリティーに属する人が困難を乗り越えて、どうにか成功し、サクセスストーリーとして祭り上げられることがあります。すると、「ほら見ろ。マイノリティーでも頑張れば活躍できるんだ」と、社会や構造の問題ではなく、本人の努力が足りないからだと、バイアスを強化するほうへいってしまう。
(中略)
活躍している人たちの周りには、見えない多くの脱落者がいます。その声なき声に耳を傾けない限り、犠牲者は増え続けます。アンコンシャス・バイアスを超えるには、男性も女性も、今は見えていない、価値観の死角に対する想像力を持つ必要があると思います。
「頑張る」ことで偏見に囚われる、という皮肉
こうした「偶然の恩寵」を忘れているのはなにも「男性」だけではありません。たとえば「女性の活躍」を訴えている(平等主義者のはずの)人が、その実ナチュラルに学歴や出身地、年収などで人を見下している、ということはけっこうあります。
そしてとても皮肉なことに、こうした偏見はむしろ自分が「頑張った」ことから生み出される、ということが結構あるのではないでしょうか。
マイケル・サンデルはハーバードの学生の例をあげていますが、賢く、自由主義的でオープン・マインデッドなはずの彼らでも、こと学歴のことになると「自分たちは努力によって今の特権を勝ち取ったのであり、入学できなかった人は怠け者だったからそれに値しなかった」という偏見を持つに至るのです。
なるほど、彼らが初等教育の頃からヘリコプター・ペアレンティングされ、遊ぶ暇もないほどに頑張ってきたのは事実でしょう。だからこそ、自分は「その地位に値する」という意識とともにそうではない人を「見下す」ようになってしまう。
そしておそらく、
1)本人が自分の「苦労」や「努力」を正当化したい(報われたい)ため
そして
2)一つの価値観(たとえば偏差値)だけを長年目指すうちに他の価値が見えなくなってしまうため
に、こうした偏見は本人も気づかぬ無意識のうちに強化されていきます。
偏見の罠はなにも学歴に特別なことではなく、誰にでも起こりえます。スポーツでも何かを我慢して練習して結果が出れば、成功したのは「我慢」して「頑張った」たからであり、成功できなかった人は「努力が足りない」として自己責任にされてしまう。外見に気を使い食べたいものを「我慢」して頑張っている人からすれば、モテない人は「手抜き」に見える、などなど。
よく言うのですが、この「我慢」というのも曲者です。
「我慢」や「頑張る」は美徳に思われますが、実は語源的には仏教の悪徳に通じます。
仏教で「慢」は思い上がりの心を言い、その心理状態を分けたものが「七慢」である。その中の「我慢」は、自分に執着することから起こる慢心を意味し、「高慢」「驕り」「自惚れ」などと同義語であった。
「頑張る」というのも「我を張る」ということであり、そうする中で慢心がおこっていくからよくよく気をつけないといけない、というのが仏教の教えなのです。実際、繰り返し指摘しているように、どれほど成功した人であってもその「功績」の半分くらいは偶然でしかなく、100%その人のおかげではないのですから。
「偏見」にどうしたら気をつけることができるのか?
それにしても、こうした偏見やそれに基づく無意識の差別に気づくのは本当にむずかしい…。自分が疑いもなく刷り込まれ、長らく拠って立ってきた価値観を疑う、というのは簡単にできることではありません。しかもそれが自分が頑張ってきたことだとしたら、それに囚われてしまうのでさらにむずかしい。
だからこそまず、「偏見」は誰もがもっている、ということを自覚することが大事だと思います。「偏見」とは「偏った見方」と書きますが、人はだれしも自分のパースペクティブからしか物事をみることができません。ある意味ではそれぞれがそれぞれに「偏って見るしかない」からです。
偏見を避ける方法論として、一つにはこうした自分の「偏向のクセ」を意識することはできるかもしれません。先程述べたように、ひとは
1)本人が自分の「苦労」や「努力」を正当化したい(報われたい)
という傾向を持ちます。だとすると逆に言えば「苦労」や「努力」したことこそ偏見につながりやすい、と気をつけることができるかもしれません。
具体的には、自分が大事にしている価値観における成果ほど、偶然や運の要素を忘れない、ということです。
自分の功績の半分くらいは自分がたまたま手にした偶然だと考えることで人は少し謙虚になったり、誰かを見下すことから解き放たれるのではないでしょうか。
運や偶然を捨象し、すべてを本人の頑張りや能力に帰する社会は、上述のように人を切り捨てがちな社会であり、故に脆弱性が高くなります。というのは、成功に限らず、失敗したり自分含め家族がいつそこから逸脱するか、というのもまた偶然や運に左右されるからです。たとえば僕はいま「たまたま」フルタイム働けていますし、子供にも一応一定水準の教育を受けさせることができています。しかし、たとえば事故や病気で働けなくなったり死んでしまったら、一気に「能力主義」社会から排除されることもありえます。
日本では「自己責任」や「自業自得」という言葉がよく使われ、コロナウイルスに感染してもセクハラされても「お騒がせして申し訳ありません」となぜか被害者が謝罪する国ですが、本人が責任を過大に負う「失敗できない国」でもあります。米国式の能力主義は1%の超大富豪と50%の200万円以下の世帯を作り出しました。それはある種タイトロープのようなもので、やっぱり閉塞的で生きづらいとおもうのです。
そしてもう一つ、
2)一つの価値観(たとえば偏差値)だけを長年目指すうちに他の価値が見えなくなってしまう
ことにも注意が必要です。
特に、ある一つの軸での「度合い」ですべてを評価しそうになった時、注意すべきだと考えます。
たとえば学歴や偏差値がそうですが、本来異なる価値をもったものを一軸に並べると優劣の意識が出てきます。しかし偏差値が高いほうがいい大学か、というとそんなことは本来ありません。教育はもっと多様であり、技術や考え方をそれぞれ身につけるための期間ですから、一軸で比べられるものではないはずです。
しかし一軸での比較には魔力があります。大学でも住みたい街でも働く企業でも「ランキング」されると優越や嫉妬、見下す気持ちが起こります。
本来、社会の価値の軸は一つではありません。
点数、偏差値、学歴、年収、時価総額。
一軸で人を評価しそうになった時には、偏見の罠に囚われていることを自覚し、自分に見えていない価値軸もあるのだと想像力をもって意識することが大事ではないでしょうか。
価値観の多様性がますます求められ、SDGsが目指されていることも、能力主義的な社会の限界が明らかになってきたからでしょう。「私は偏見をしていない」と言い切るのではなく、偏見は自分の中にもあると自覚し、自分の正しさで人を切り捨てず想像力をもって自分の価値を相対化するマインドセットがこれからの社会ではますます必要になるのではないでしょうか。
ーー以下宣伝ーー
「当たり前」になっている正義を問い直すきっかけをくれるマイケル・サンデル氏。実は自著『アート思考ドリル』を書くきっかけにもなっていて、『アート思考ドリル』ではアートを通じて価値軸を揺らすことを目指しました。
この本、一人で読むよりみんなでやるといろんな価値観に触れられてとても楽しいです。5月完売してしまった書籍付きのワークショップが6月にも追加開催されますのでよかったらぜひ!