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江戸時代の長屋に見る「損得感情より損得勘定」が社会を救う

毎日毎日コロナ関連のニュースばかりでうんざりしますが、緊急事態宣言も延長の方向で4日正式発表とのこと。

その一方で、長引く自粛によって、家賃すら払えない人達の悲鳴も大きくなっています。そうした声を受けて、家賃支援に乗り出す動きも見えています。


さて、家賃は家賃でも、話はガラリと変わりますが、江戸時代の長屋における家賃問題についてお話しましょう。

長屋はこんな感じです。東京深川の江戸資料館で僕が撮影した写真です。

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厳密には、長屋には表長屋と裏長屋がありますが、時代劇なんかで出てくるのは裏長屋の方です。広さは土間を入れて6畳くらいなので、居住スペースは4畳半程度です。トイレ共同の風呂なし。井戸も共有で、今でいったら個室はあるシェアハウスのようなもんです。

当時の家賃は、時代及び換算レートの考え方によって多少変わりますが、現在のお金にして、大体月8000~1万円です。激安に思えますが、長屋に住む棒手振り稼業の平均月収が10万くらいなので、それ以上だとなかなか住めませんね。

家賃を払わないと当然退去もありますが、長屋の大家は案外その辺寛容でした。実際、家賃滞納したからとガタガタ言いません(あ、ガタガタは言ったかもしれないけど、実際追い出したりしない)。

ちなみに、大家というのは地主ではなく、今でいうマンションの管理人みたいなものです。住民同士のいざこざなんかも仲裁する必要もあるし、まあ今の管理人よりは仕事が多いでしょう。

貧乏な店子からすれば「大家さ~ん、なんてやさしいんだ~」って感激したろうと思いますが、それは大家が菩薩みたいな心を持っていたからではない。大家からすると、家賃以上に家賃外収入の方が大切だったからです。

家賃外収入とは店子の糞尿です。農家と契約して、店子の糞尿は年間100~200万円の収入になりました。下手すれば家賃収入より上です。そういうカラクリがあるので「家賃を払わないなら出てけ」というより、そのまま住まわせて、たくさんうんこしてくれた方が大家にとって助かるわけですね。

また、長屋には独身男が多く住んでいましたので、彼らのために、現代の家事代行サービスとも言える洗濯の代行業なんかも行われていました。ある意味、長屋内での循環経済が成立していたわけですね。

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江戸の長屋は家族コミュニティ同然、人情味が厚いと思われがちですが、決してそんなウェットなもんではなく「感情より勘定」という経済共同体でもありました。


そう言うと、「なんでも金かよ。世知辛い」と思われがちですが、損得勘定は大事です。

現代のコロナ禍に視点を移すと、10万円の一律給付が決定した際、こんな話が出ていました。

「公務員や年金受給者、生活保護受給者に10万円なんて必要ない。渡すな」

よくよく考えるとすごいおかしい。自分が損するわけではないのに、生活保護や年金受給者が10万円をもらうのは許せない! とかいうわけです。

10万円は俺達の血税だとかいうけど、公務員だって税金は払っているし、年金受給者も生活保護受給者も消費税は払っている。何より、所得税だけでみれば、総徴収額のうち半分は年収3388万円以上の高所得者の納税額だけで占められています。自分達だけが税金負担しているわけではない。

こういうフリーライダーを許せない人は、一見自己の損得に敏感なようでいて、むしろ逆。彼らは損得勘定ではなく損得感情で生きてる。自分が気に入らないとかそういう次元で物事を考えるので、冷静な判断力と客観的な視点を見失ってしまうのです。

だから、「損得感情」で生きる人間は、往々にして「自分が金銭的損をしてまでも気に入らない奴を得させない」というわけのわからん行動をしがちです。みんな揃って貧乏になって死に絶えていくことを選択してしまうんです。驚くことに、それが彼らにとって快感だったりする。

合理的に損得勘定できる人は、それが直接的に自分の損にならないのなら、他人の゙タダ乗りなんかに頓着しません。


少し前ですが、マルイがテナントの家賃と共益費を全額免除したというニュースがありました。

これこそ、共助共存。困った時はお互い様。テナントが立ち行かなくなったら、大家だって困るわけです。江戸時代の長屋の話に戻すと、家賃を払わない者を次々と追い出してしまったら、肝心の収入源であるうんこが得られなくなるのです。

どっちが得か、考えればわかるはずです。

目の前の食糧を貪ることしかできない餓鬼は、他者から奪うことしか考えない。他者から奪うことしか考えない者は、短期的には得をするかもしれません。しかし、そんな奴がたとえ困ったとしても誰も助けてくれないでしょう。

利益とは奪うものではなく共有するものです。人の損の上でしか成り立たない利益というのはあり得ない。同様に、人のために自己を犠牲にする人間も生きてはいけない。

利他とかもてはやす人がいますが、本当に利他な人間なんて真っ先に死にます。ダーウィンの理論によれば、利他的な人間など淘汰されてこの世に存在するわけがないのです。

利己的で何が悪いのでしょう。それが当たり前であり、それこそが社会を社会たらしめる原理なのです。自己の利益を考えるからこそ、他人の利益が生まれるのです。

これは、道徳的な話ではありません。損得の話です。これを道徳的な話にゆがめてしまうから、「あいつはズルをしている、許せん。自分が損してでもあいつを懲らしめないといかん」という「損得感情」で物事を考える人間を作り出してしまうのです。

「損得感情」ではなく、個々人の「損得勘定」こそが、結果的に他人も救うのです。自分の利益を適度に最適化するためには、他人の利益も慮らないと立ちいかないからです。利益とは、一人占めするものではなく、シェアし、循環させてこそ利益と呼べるもの。そもそも、経済とはそういうものであり、無人島で1人生きているわけじゃないのだから、社会で生きるとはそういうことです。

長年の会社勤めを辞めて、文筆家として独立しました。これからは、皆さまの支援が直接生活費になります。なにとぞサポートいただけると大変助かります。よろしくお願いします。