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「日本を芸術文化大国にする」とはどんな状態なのか?

ぼくたちオシロ社は「日本を芸術文化大国にする」というミッションを掲げている。「芸術文化大国」とはいったいどういう状態なんですか?という問いは、オシロ社を創業した当初からこんにちまでよく聞かれることだ。
今回は、オシロ社として考える「芸術文化大国」の姿について綴っていきたい。


日本は経済成長から「芸術成長」の時代へ

この連載(note)を始めた最初の記事では、ぼくがオシロ社のミッション「日本を芸術文化大国にする」を天命として授かったエピソードや創業の経緯について記した。

10年前日本とニュージーランドを行き来する二拠点生活を送っていた頃感じていたことは、日本は技術では世界一になったが、かつて経済大国として世界を席巻していた頃からすると成長が鈍化していること。この先、日本は生き残っていけるのだろうか?という存在感を失いつつあることへの危機感だった。

ハードパワーが喪失しつつある今、日本に求められるのはソフトパワーの強化であり、特に日本が大きなポテンシャルを持つ芸術文化に注力し、国際的なプレゼンスのある状態、つまり「芸術文化大国」へとシフトしていくべきだと考えていた。

一方で、「そもそも、現在の日本は芸術文化大国ではないのか?」と考える方もいるだろう。たしかに、日本には素晴らしい文化遺産があり、世界的に評価を得るアーティスト・クリエイターを多数排出している。各都市には博物館や美術館があり、メセナ活動をされる企業や、学芸員の方々の努力により文化的に意義深い展示にもアクセスがしやすい。さらには新聞社の功績もあって鑑賞者は世界でもトップクラスである。

しかし、日本の芸術文化は、果たして現状が最高の状態なのだろうか?

ぼくは、日本の芸術文化にはもっと、成長の可能性があると思っているし、世界中に美名を響かせられると思っている。

では、芸術文化が成長した状態。具体的に「芸術文化大国」とはどのような姿なのだろうか。

日本が芸術文化大国となるために必要なアプローチは大きく2つある。

生み出す人を増やす、裾野を広めていくことも重要だ

1つめは「表現活動をする人を増やすこと」。いわば、アーティスト・クリエイターを続けていくことへの障壁をなくし、多様なプレーヤーを増やしていくことが求められる。

それは決して特定分野のトッププレーヤーを増やしていくことを意味するのではない。そこを目指す人が生まれる何段も手前には、とにかく表現活動をする人たちの母数を増やしていく必要がある。母数が増えない限り、作品は増えない。なにより多くの才能が眠ったままになってしまうからだ。

そもそも、作品の評価を現代に委ねることは難しいし、今の価値観で確定することはほとんどないともいえる。もちろん、存命中に名声を得て国際的に活躍するアーティストやクリエイターもいるが、アートは現代の感覚では必ずしも推し量ることができないからこそ尊く、素晴らしいものだと思っている。存命中には一定の評価を得られなかった、またはまったく無名のまま亡くなったアーティストの作品が後世で何百億円もの評価額を得ているケースもある。

また、現代では日本のコンテンツ産業を海外に輸出していくことに注目が集まっている。しかし、既存のコンテンツを海外に輸出していくことと同じくらい重要なのは、日本の中でこれまで創り上げられた作品を保護していくと同時に、次世代のアーティストやクリエイターが育まれ、活動を続けられるエコシステムを構築することではないだろうか。

現状、文化庁では経済と文化の好循環を実現するため「CBX(Cultural Business Transformation)」を提唱し、官民連携での取り組みを進めている。

しかし、上記記事でも紹介されているように「2024年度の文化庁予算は過去最高水準だが、独仏や韓国の半分にも満たない」。

日本では政府主導による芸術文化の振興に依存するのではなく官民連携で、かつ一個人単位が参画するような芸術文化の発展のあり方を考えていくべきだと、ぼくは声を大にしていいたい。一方で、以前の記事でも紹介させてもらったが、経団連はコンテンツ産業の育成に向けた「コンテンツ省」の設置を政策提言している。

この提言は現状の芸術文化を含むコンテンツ輸出の伸び悩みへの危機感の表れでもあるが、ある種民間からのラブコールであるとも捉えることもできる。企業として芸術文化の発展に真剣に取り組み始めていること、それに対し政策的なアプローチを求める声が経団連からあがったのは、前向きに捉えるべきだろう。

その際に重要になるのは、日本にある素晴らしい芸術文化を保護すること。現在表現活動をしているアーティストやクリエイターが必要とするお金とエールを応援者から持続的に得られる、応援団システムを構築すること。ここはオシロ社がコミュニティという手段でこれまで取り組んでいたことでもある。つまりは過去・現在・未来を見据えた取り組みを進めていくことが重要だ。

フィジカルでもデジタルでも芸術文化と触れる機会を増やす

そして、2つめに重要なのは、「創出された作品、芸術文化に触れる機会を増やしていくこと」だ。

ぼくは20代の頃、世界一周の旅に出て、そこで訪れたヨーロッパ諸国の都市には歴史的な建築が数多く残っていたこと、街の至るところに彫刻物や現代アートがあることに驚いた。

特にフランスのパリでは、法律で歴史的建造物が厳重に保護されていて、それに加えて企業が芸術文化活動を支援する「メセナ」も盛んであるため、新しい芸術も生み出されるようなエコシステムが構築されている。そのため、都市の至る所にアートがあり、アーティストやクリエイターが作品を発表する機会も多い。いわば都市全体がアーティストの表現活動の場にもなっているのだ。

アートが身近であることの利点は、アートの需要を喚起することにもつながることだ。例えば、日本に比べて欧米では壁に絵画や写真を飾る文化が根づいている。これは宗教や慣習など、長い歴史の中で培われている要素もあると思うが、日常生活の中にアートが溶け込んでいることも大きいと思う。つまり、アートが身近にあり、カジュアルにアート作品を購入して家に飾ることが日常にあるのだ。

日本でも歴史的な建造物は保護されてもいるし、京都や金沢では条例によって景観を保護されてもいるが、多くの都市でスクラップ&ビルドによって貴重な建築が失われつつもある。

もちろん、日本の場合は災害が多く、老朽化した建築を残しておくことは災害時のリスクになることもわかっている。しかし、都市空間の中にアートが介在する余地がないのかといわれると、ぼくはむしろ、日本の都市にはアートが入り込むスペースが存分に残されていると感じている。

普通に見れば、東京などの都市空間には建物が所狭しと建っていて、アートがある空間をつくる隙間などないように思えるだろう。しかし、アートを展示する、演奏する、演じる場所というのは、必ずしも新たにスペースを空ける必要はない

ビルの中にも、オフィスにも、家の中にも壁があるが、その多くはまだまだ飾れる余地のある空白地帯だ。さらにいえば、土地には隙間なく建物が建っているが、その建物の中には人間やモノが隙間なく押し込められているだろうか。むしろ、その建物の中のどこからしらには、ぽっかりと空間が広がっていることもある。

そのような空白や空間と言える場所こそ、アーティストやクリエイターの舞台となるポテンシャルを持っていて、そこは東京であってもほぼ無限に広がっているといえるだろう。

一方で、アートへのフィジカルに触れるだけでなく、デジタル空間上でも触れる機会や親しみ楽しむ場を創設することも大切だ。その一手として、オシロ社では2024年12月から自社運営のコミュニティをベースとするまったく新しいメディア「ビジュツヘンシュウブ。」をスタートしていく。

導き手としてお招きしたのは、長年『BRUTUS』(マガジンハウス社)の美術特集を手がけた「フクヘン。」こと鈴木芳雄さんだ。美術雑誌の編集部を模したコミュニティの中で、さまざまなアーティストやクリエイターへの取材や内覧会への潜入取材を疑似体験できるコンテンツなど、これまでのメディアではなかなかできなかった多様なアクティビティを通して編集者の深い視点からアートを知れる機会を提供したいと考えている。


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