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新緑の葉の色から音楽を聞く耳をもつということ。 ~ 一言切り抜きfrom日経#141

日経新聞を長年読んでいて気づいたことがありまして。

書評のコーナーや文化面はもちろんのこと、一面の下のコラム「春秋」他、いろんな所に、なぜだか日経に頻出する一人の小説家がいます。先週はなんと1週間に2回も登場しました。

その経済紙に愛される作家は。

永井荷風。

せっかくだからその記事から切り抜いてみました。

5月17日日曜日 Nikkei the Style「わがままなひとり暮らし 永井荷風の日記をたどる」。

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永井荷風の日記の最後の日の一行。

>おひとりさまの先達、荷風は1959年4月30日未明、自宅でだれにみとられることなく、本人の希望通り、ぽっくり息を引き取った。かたわらには森鴎外著「渋江抽斎」が初めから4分の1ほどのページを開いた状態で置かれていた。79歳、死因は胃潰瘍だった。

>市川市八幡の自宅近くにあった飲食店大黒家(2017年に閉店)の増山孝子さん(85)は言う。「死の前日の29日も、いつもの席でいつものようにカツ丼を平らげました」

>29日の荷風最後の日記には「祭日。陰。」とだけ記されている。

小説家とは、どこを切ってもこうかっこいいものなのか。それとも、見られる前提での、潔い一行なのか。わからないが、切り取ってみたくなったので掲載。


2つ目は、5月23日土曜日文化面、詩人佐々木幹郎さんの「100年後の日本」のエッセーより。 

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これは永井荷風の言葉ではないが、永井荷風の言葉を受けて、佐々木さんが書いたもの。

>誰もがその抑圧に耐えているうちに、コロナウイルスはなるほど、人間にとって大事なものが何であるかを、浮き彫りにしてくれていることに気がつく。

>自宅の中庭の樹木を見る時間が長くなった。ケヤキの大木や枝垂れモミジに新緑の小さな葉が次々に開き、それが次第に大きくなり風にそよぐさまを眺めていると、ふいに永井荷風の短いエッセイを思い出したりする。

>「どんより曇った日には緑の色は却(かえ)って鮮かに澄渡(すみわた)って、沈思につかれた人の神経には、軟(やわらか)い木の葉の緑の色からは一種云いがたい優しい音響が発するような心持をさせる事さえあった」(「花より雨に」)。

>新緑の葉の色から音楽を聞く耳を持つということ。ここには自分自身を忘れるような思いで樹木を見続けた人がいる。「優しい音響」は樹木が彼と、あるいは彼が樹木とコミュニケートしようとしているからこそ聞こえてきたのだ。


メールも会議も企画書を書くも、何をするにもPCを見つめ続けなくてはいけないのがテレワーク。

借景としてマンションの窓から見える木々。公園のベンチから見上げる太陽を透かした光るキミドリ。この季節の新緑が目を休めてくれるのは、テレワーク中のみなさんの共通の癒しの瞬間じゃないでしょうか。例年にも増して、今年の新緑はとびきり美しく見える。

さらに、そんな中、うちのベランダのオリーブが、育て始めて3年目で始めて、花をつけたりもして。

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地球温暖化に対するソーシャルアクションは、大きく声をあげるのと同時に、自然の声を聞くことからも始まるんじゃないかなあ。

なんて、日経永井荷風週間から思ったりしました。

全文はこちら。






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